Yazar: nursi

第9の言葉

بِسْمِ اللّٰهِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيمِ فَسُبْحَانَ اللهِ حِينَ تُمْسُونَ وَحِينَ تُصْبِحُونَ وَلَهُ الْحَمْدُ فِى السَّمٰوَاتِ وَاْلاَرْضِ وَعَشِيًّا وَحِينَ تُظْهِرُونَ 1                              (ビザンチン章 30-17、18)  兄弟よ。あなたは私に、五回の祈りの時間がなぜ定められているのか、それにはどんな英知が含まれているのかを訊ねました。そのたくさんの英知のうちいくつかを示しましょう。  そう、それぞれの祈りの時間は、重要な変化の始まりの時間であると同時に、偉大なアッラーのみわざの鏡であり、全てをお望みのままになされるアッラーの全てを包括する恵みの投影でもあります。だからさらなる賛美でもってカディーリ・ズルジャラールを称える為に、それぞれの時間の区分の間で蓄積されたアッラーへの賞賛と感謝を行うことを意味する、礼拝が命じられているのです。この繊細で深い意味を少し理解する為、次の五つのポイントを私自身の我欲と共に聞いてください。 第一のポイント  礼拝の意味はジャナーブ・ハックへの賛美、賞賛、そして感謝です。つまり ‐アッラーの威厳を前にして言葉で、そして心でスブハーナッラー(アッラーはあらゆる欠点からかけ離れたお方である)と唱えること ‐アッラーの完全さに対して、言葉と行為でアッラーフ・アクバル(アッラーは偉大である)と称えること ‐アッラーの無限の美しさに対し、心と言葉、肉体でアルハムドリッラー(アッラーに感謝を)と唱え、感謝することです。  つまり、タスビーフ(アッラーがあらゆる欠点から遠いお方であると唱えること)、タクビール(アッラーが偉大であると唱えること)、そして感謝は礼拝の核のようなものです。だから、、この三つの言葉は礼拝の全ての部分で、全ての動作と動きに存在します。それらの神聖な言葉を強めるように、礼拝の後でそれぞれを三十三回ずつ唱えるのもこの為です。礼拝の意味は、この三つの焦点によって強められるのです。 第二のポイント  イバーダの意味とは、アッラーの慈悲の扉においてしもべが彼自身の欠陥と無力さを知り、ルブービーヤの完全性と、サマダーニヤの力、そしてアッラーの恵みを前にして、愛情と感嘆の中で身を伏すことです。  つまり、ルブービーヤの統治が、アッラーのしもべとなること、従順であることを求めるように、ルブービーヤの統治の神聖さは輝かしさを求めるものなのです。しもべが自らの欠点を目にし、悔悟によって、そのラッブがあらゆる欠点から遠く、輝かしい存在、逸脱した人々の無為な考えからも遠く、崇高でこの世界のあらゆる欠点からかけ離れ、清らかであられることを、タスビーフによって、スブハーナッラーと唱えるようにと。  またアッラーの力の完全性は、しもべが彼自身の弱さと他の被創造物の無力さを理解し、アッラーの御業の威厳を前に、賞賛と感嘆の中で「アッラーフ・アクバル」と唱え、畏怖の気持ちと共にルクウを行い、アッラーに庇護を求め、信頼することを求めるのです。  またアッラーの慈悲の無限なる宝庫は、しもべが懇願と祈願の言葉を通して、彼のニーズ、他の被創造物の要求、必要とするものを求め、ドゥアーの言葉によって示し、そのラッブの恵みを感謝と称賛、そして「アルハムドリッラー」と唱えることを求めます。  つまり、礼拝の言葉と動作はこれらの意味を含んでおり、それらの為にアッラーによって定められたものなのです。 第三のポイント  人間がこの偉大なる宇宙のミニチュア見本であるのと同様、開端章(アル・ファーティハ)は偉大なる聖クルアーンの輝かしい見本です。礼拝はイバーダの様々な種類を内包する、輝かしいインデックスであり、被創造物のあらゆる種類の崇拝を示す神聖な地図なのです。 第四のポイント  週を示す時計があるとすすれば、その時計の秒針、分針、時針、そして日を示す針は、それぞれ、お互いがお互いの見本であり、お互いの後に従う。同様に、ジャナーブ・ハックの偉大なる時計の秒針のようである夜と昼の移ろいも、分針のようである年の移ろいも、時針のようである人間の寿命の段階も、日を示す針のようであるこの世界の寿命の段階も、全てそれぞれが互いを当てにして、互いの見本であり、互いに似ており、互いを支配しているのです。  例えば、ファジュルの時間。日が昇るまでのこの時間は、春の始まり、母の胎内での受胎の瞬間、天と地の創造のうち最初の1日に似ており、それらを心に思い起こさせます。そしてそこにあるアッラーのみわざを思い出させるのです。  ズフルの時は、真夏、若さの素晴らしさ、そしてこの世界の寿命における人間の創造の時期に似ており、それを示します。そしてそこにある慈悲の権限と恵みの豊かさを思い出させます。  アスルの時間は秋、老年期、そして終末の世の預言者(彼の上に祝福と平安あれ)の幸福の時代に似ています。そしてそこに存在する、アッラーのみわざとアッラーの無限の慈悲による恵みを思い出させます。  マグレブの時は、秋の終わりにおける多くの創造物の消失、そして人の死、最後の審判の始まりにおけるこの世の破壊を思い出させることでアッラーの無限の威厳と崇高さを思い起こさせ、人を不注意なまどろみから目覚めさせます。  イシャーの時は、暗い闇によって昼の世界の全てを覆い隠す黒い覆いを思い起こさせ、そして冬がその白い死者を覆う布によって、地上の死者たちを覆い、さらに死者たちが遺した近親者たちすらも死に絶え、忘却のベールに覆われること、そして、試練のステージであるこの世界が閉じられていくことを思い起こさせることによって、カッハール・ズルジャラールの壮大なみわざを告げるのです。  夜は、冬、墓、この世とあの世との間にある世界を思い起こさせることで、人間の精神が最も慈悲深いお方の存在をどれほど必要としているかを思い出させます。そしてタハージュドの礼拝は、墓場の夜、この世とあの世の間の世界の闇においてそれがどれほど必要な光であるかを人間に知らせ、警告します。そしてこれらの変化の中でジャナーブ・ムニーム・ハキーキの無限の恵みを思い起こさせ、アッラーが感謝と称賛に行かにふさわしい存在であるかを告げるのです。 そして第二の朝は、復活の朝を思い起こさせます。夜には朝が、冬には春が適切で、必要で、絶対であるように、復活の朝も墓場の春も同じ絶対性を持つのです。  つまりこの五つの時がそれぞれ重要な局面の始まりであり、大きな変化を思い起こさせるように、アッラーの驚嘆すべき日々のみわざは、それぞれの年、時期、時代におけるサマダーニヤの力の奇跡、アッラーの慈悲が与えられる贈り物を思い起こさせます。つまり人の生まれながらの義務であり、信仰の基本であるファルドの礼拝は、これらの時間に最も適切であり、ふさわしいのです。 第五のポイント  人間の本質は非常に弱いものです。それにも関らず、多くのものが彼に影響を与え、彼を嘆かせ、悲しませます。そして人は非常に無力です。しかし彼を苦しめる災難と敵はとても多いのです。そして彼は怠け者で、能力を持ちません。しかしその人生の荷はとても重いものです。彼の人間性は彼をこの世界に結び付けるが、彼が愛するものや親しんだものの消失と別離が常に彼を苦しめます。また彼の知性は彼に、崇高な目的と無限の成果を彼に示します。しかし彼のできることは少なく、命は短く、力はなく、辛抱強さもわずかなのです。  この状態にある魂がファジュルの時間に、カディーリ・ズルジャラール、ラヒーミ・ズルジャラールの御前で懇願や礼拝によって自らの状態を訴え、成功と援助を求めることがいかに適切か、その日彼の身に起こるであろう出来事や、彼の背に乗せられるであろう重荷のために助けを求めることがいかに不可欠なことか、明白に理解できるでしょう。  そしてズフルの時間。それは一日の絶頂期であり、その衰えの始まりでもあり、その日の仕事が完成される時であり、仕事の圧力からの短い休憩の時です。このはかない世界の一時的な、そして重い仕事が与える不注意さや疲れから魂が休息を必要としている時であり、アッラーの与えられる恵みが明らかにされる時でもあるのです。人の魂にとって、この正午過ぎの礼拝がどれほど素晴らしく、快く、必要なもので、そして適切であるか理解されるでしょう。プレッシャーから逃れ、不注意さを振り払い、無意味ではかないことを脇へよけ、カイユーム・バーキー、ムニーム・ハキーキの御前で手を組み、あらゆる恵みに感謝し、助けを求めること、その威厳、崇高さの前にルクウをし、自らの弱さを訴え、消えることのないその完全さと比類なき美の前にサジュダをし、感嘆と愛情と謙虚さを訴えることを意味するズフルの礼拝を行うことがいかに素晴らしく、必要なことであり、適切であるかを理解しない人は、真の人とは言えないのです。  アスルの時間、それは秋の物悲しい季節、哀しみに沈んでいる老年期、そして末世の痛みに満ちた時期を思い起こさせます。その日の仕事の結果が出る時間、その日に与えられた健康、安らぎ、立派な奉仕といったアッラーの恵みの集大成が形成される時です。  そして巨大な太陽が沈んでいくことで人はただの客に過ぎず、何もかもがはかなく不実であることを示唆する時間なのです。  人の精神は永遠を切望し、永遠の為に創造され、慈悲深さを強く慕い、別れによって苦痛を与えられます。このような魂が、立ち、ウドゥーを行い、このアスルの時間に礼拝を行う為に、カディーム・バーキー、カイユーム・サルマディーン、サマダーニヤの御前で懇願し、失われることのない、限りのない慈悲による救いに庇護を求め、限りない恵みに感謝し、ルブービーヤの威厳と崇高さに対し無力さのうちにルクウを行い、ウルーヒーヤの無限さの前で謙虚にサジュダを行い、真の心の慰め、魂のやすらぎを見出し、アッラーの崇高さの御前でしもべとして服従すべく手を組み合わせることを意味するこのアスルの礼拝を行うことがいかに崇高な任務で、いかに適切な奉仕で、創造における恩にふさわしい行為であるか、そして素晴らしい幸福を得ることであるということを、人であるならば理解できるでしょう。  マグレブ(日没の時間)。冬の初めの、夏や秋の、繊細で素晴らしい生物たちが、別離の悲嘆のうちに去っていくことを思い出させます。人が死ぬことで、人間が自分が愛する全てのものを別離の悲しみの中に残し、墓に入る時間を思い出させます。この世界が断末魔の苦しみの中に死に、、全ての住人が他の世界へ移っていき、そしてこの試練の場の明かりが消される時のことを思い起こさせます。はかなく、つかの間の存在でしかないものを愛し崇拝する人々に強い警告を与える時でもあります。  そう、マグレブの礼拝は、このような時間に、本質的に永遠の美である存在を望む鏡のようであり、その限りない美を愛する人の魂は、その顔をこの偉大な事柄を実行し、この大きな世界を動かされ、変えられるカディーミ・ラムヤザル、バーキ・ラヤザルの御業がなされる場に向けます。はかない存在に対し、「アッラーフ アクバル」と宣言し、そういった存在から手を引きます。ダーイミ・バーキーであるお方アッラーの御前でキヤームを行い、「アルハムドゥリッラー」ということで、不足のない完全さ、比類なき美、限りのない慈悲に感謝し、賛美を行い、それから「私たちはあなたにのみ崇め仕え、あなたにのみ御助けを乞い願う」(開端章第5節)と宣言することで、何も助けを必要としないルブービーヤ、並ぶもののないウルーヒーヤ、そして助けを要さないその統治に対し、しもべであることを訴え、救いを求めます。 […]

第8の言葉

بِسْمِ اللّٰهِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيمِ اَللهُ لاٰۤ اِلٰهَ اِلاَّ هُوَ الْحَىُّ الْقَيُّومُ 1              (雌牛章 2:255) اِنَّ الدِّينَ عِنْدَ اللهِ اْلاِسْلاَمُ 2                 (イムラーン家章 3:19)  この世界、そしてこの世界にある人の魂、そして人における宗教のあり方と尊さ、そしてもし正しい教えがなかったとしたら世界は監獄となっていたこと、教えを持たない人が最も不運な被造物であること、そしてこの世界の鍵を開き、人の魂を闇から救うのが「ヤー アッラー」と「ラー イラーハ イッラッラー」であることを理解したければ、次のたとえ話を聞いてください。  昔、二人の兄弟が共に、長い旅に出かけました。そのうちに道が二つに分かれました。分岐点に、真剣な男がいるのを彼らは目にしました。そしてその男に尋ねました。 「どちらの道がいいでしょうか?」 男は彼らに言いました。 「右の道では、規律や秩序に従う必要があります。しかしその困難の中に、安全や幸福があります。左の道には自由があります。しかしその自由の中には危険や不運があります。どちらを選ぶかはあなた方しだいです」  これを聞いた後、よい性質の兄弟は右の道へ、「アッラーに庇護を求め、信頼しました」と言って進んでいきました。そしてそこでの規律や秩序を受け入れていました。道徳心に欠けるもう一人の兄弟はただ自由の為に左の道を選びました。一見、容易で、実際には困難な状態で道を進むこの人の後をしばらく辿りましょう。  彼は沢を超え、丘を越えて進んでいくうちに、何もない砂漠に入りました。突然、大きな声が聞こえました。ライオンが木々の間から飛び出してきて彼を襲ってきたのを彼は目にしました。彼は逃げ、60アルシュンの深さの水のない井戸に行きつきました。恐怖のあまり、彼はその井戸に飛び込みました。井戸の中ほどまで落ちたところで、彼の手が木に引っかかりました。井戸の壁から生えているその木には、二本の根がありました。その根を白と黒の二匹のねずみが噛み切ろうとしていました。彼は上を見ました。ライオンが、当番兵のように井戸のそばで待ち構えていました。下を見ると、恐ろしい怪物がそこにいました。頭を持ち上げ、30アルシュンの高さに井いる男の足に近づいて来ていました。その口は井戸の口と同じ位大きいものでした。井戸の内壁を見ると、そこには有害な、毒を持ったかみつく虫がびっしり張り付いていました。木の先を見ると、それはいちじくの木でした。しかしいろいろな種類の果実、クルミやザクロまでがそこに実っていたのでした。  しかしこの男はその理解力のなさゆえに、この状態が通常のことではなく、偶然に起こるものでもないということを理解していませんでした。この奇妙な出来事には秘められたものがあり、それを実現化させている大きな存在があることを把握できずにいました。  彼の心や魂、理性はこのひどい状態に陥ったことに嘆き悲しんでいるにも関らず、彼の自我はあたかも何も起こっていないかのように知らんぷりを決め込み、魂や心の泣く声にも耳をふさぎ、自分自身を偽り、あたかも果樹園にでもいるかのように、その木の果物を食べ始めたのでした。しかしその果実のいくつかは毒があり、有害なのでした。  あるハディースでジャナーブ・ハックは「しもべが私のことをどのように認識するのであれ、私も彼にそのようにふるまう」と仰せられています。この不幸な男は、邪推と理解力のなさにより、彼が目にしたものをありきたりで現実のできごとだと思い込みました。死ぬことも生きることもなく、この状態で罰を受けたのです。私たちもこの男をここに置いて戻り、もう一人の兄弟の状態を確認しましょう。  この、素晴らしい理性を持った人は進んでいきます。しかし兄弟のような苦労はしていません。なぜなら、よい徳を備えている為、よい形で考え、よいことを想像し、自分自身の友となっているからです。さらに兄弟のように苦労したり苦痛を味わうこともありません。なぜなら規律を知り、それに従い、それを容易としていくからです。法に従い、安全のうちに自由に道を進んでいきます。  やがて彼はある庭園に行きつきました。そこには美しい花や果実があり、同時に手入れをされていない為に汚いものもありました。彼の兄弟も同じような庭園に入っていました。彼はこの汚いものにこだわってしまい、吐き気を催していました。そのため全く休むことなくそこから去っていました。こちらの男は「物事のよい面を見なさい」という規則に従って行動し、汚いものを一切見ずにいました。美しいものを十分に利用したのでした。そして存分に休憩してからそこを離れたのでした。  それからさらに進んで、兄弟と同じようにこの男も大きな砂漠に入りました。突然、彼を襲うライオンの声を聞き、びっくりしました、しかし兄弟ほどに怖がりはしませんでした。なぜなら、よい受け止め方をし、よい考えで「この砂漠には支配者がいるはずだ。このライオンはその支配者の命令に従う奉仕者なのかもしれない」と考え、慰めを得たのでした。  ただ、やはり彼は逃げました。60アルシュンの深さの水のない井戸に行きつき、その中に飛び込んだのでした。兄弟と同じように、井戸の半ばでその手が木に引っかかり、宙吊りになりました。二匹の動物がその木の根を噛み切ろうとしているのを見ました。上を見るとライオンがいて、下を見ると怪物がいました。兄弟と同じように驚くような状態に陥ったのでした。彼もまた恐れを抱きましたが、彼の兄弟の恐怖に比べると1000倍軽いものでした。なぜなら彼のよい徳は、彼によい思考を与え、よい思考は、彼に全てのもののよい面を彼に示したからです。そう、その為に彼は次のように考えたのでした。 「この奇妙な出来事は互いにかかわりがある。しかも一つの命令に従って動いているように思える。つまりここには何かが秘められているに違いない。これらは秘められた支配者の命令で動いているのだ。ということは私は一人ではない。この秘められた支配者が私を観察し、私を試し、何か目的があって私をある場所に招いているのだ」  この甘美な恐れとよい思想から、一つの関心が生まれます。 「私を試し、自らの存在を私に知らせることを望み、この奇妙な手段で、私を何かの目的の為に呼ぼうとしているのは誰なのだろうか」  そして知りたいという関心から、この秘められた存在への愛情が生じました。そしてこの愛情から、秘められた謎を解く希望が生じました。そしてこの希望から、その神秘の主の満足される、気に入られるよい状態となりたいという意志が生じました。 それから彼は木の先端を見て、それが無花果の木であることを理解しました。しかしその先端には何千もの種類の果実がありました。それを見て彼の恐怖は完全に消えてしまいました。なぜなら、彼はこのイチジクの木があるリストであり、一覧であり、展示であることを確信したからです。秘められた支配者が、果樹園や畑にある様々な種類の果実を、その神秘と奇跡によってその木に取り付け、彼自身の客の為に用意した糧の見本という形でこの木を飾ったのに違いないのです。そうでなければ、一本の木が何千もの種類の果実を実らせることはありえないからです。  それから彼はドゥアーを始めました。この秘められた力の鍵が彼にひらめきを与えたのでした。 「ああ、この土地の支配者よ。私の運命はあなたに委ねられました。あなたに庇護を求めます。私はあなたへの奉仕者です。あなたのご満悦を求めています。あなたを求めています」  そしてこのドゥアーの後、突然井戸の内壁が二つに分かれ、清らかで美しい庭園への扉が開かれました。あの怪物の口がその扉に変ったようでした。そしてライオンと怪物は二人の召使いとなり、彼を扉の内側へと招きました。さらにこのライオンは、彼の為の従順な馬となりました。 そう、怠惰な我が自己よ。そして想像上の我が友よ。来なさい、この二人の兄弟の状況を比較してみましょう。善がどのようなよい結果をもたらし、悪がどのような悪い結果をもたらすのかを知りましょう。  左側の道を行った不運な旅人は、常に怪物の口の中に落ちるかもしれない状態にあります。もう一方の幸運な男は、果物の実る、気持ちのよい庭園へ招待されています。  不運な男はひどい災難と恐怖の中で心が砕けるような目にあいました。幸運な男は、心地よい警告や軽い恐怖、そして気持ちのいい出会いのうちに、この奇妙な出来事を喜んで眺めています。  不運な男は失望と孤独のうちに苦しんでいます。しかし幸運な男はそれになじみ、希望と喜び、強い願望の中で喜びを味わっているのです。  不運な男は自らを猛獣の攻撃にさらされた囚われ人と見なしています。幸運な男は誉れ高い一人の客であり、気前のよいホストの、風変わりな召使いたちと友情を築き、楽しんでいます。  さらにこの不運な男は、一見おいしそうであり、実際には毒入りかもしれない果実を食べることによってその罰をより早く招いているのです。なぜならこれらの果実は見本なのです。本物を求めているのなら、味を見ることは許されます。しかし動物のようにそれらを食べつくすことは許されないのです。幸運な男はそれを味わい、それについて十分に理解し、食べることは後回しにします。待つことによっても楽しみを味わうのです。  そして、不運な男は自らを苦しめたのです。明らかに素晴らしい真実と輝かしい状況を、その思慮のなさによって暗く深い闇の妄想、一つの地獄としてしまったのです。慈悲を受ける権利もなければ、誰かを非難する権利もないのです。例えば、人が美しい庭園で、友人達に囲まれ、心地よい気候の中楽しい宴を行っているのに、それに満足せずに穢れた酒に逃避し、酔っ払い、それによって自らを真冬に怪物に囲まれ、空腹で裸であると思い込んで泣き始めたとしたら、同情には値しないのです。彼自身が自らを苦しめており、親友を怪物と思い込んでいるのです。そう、この不運な男もこのような状態にあったのでした。  幸運な男の方は、真実を見ています。真実は美しいものです。真実の美しさを理解することによって、その持ち主の完全さを敬うようになります。そして、その慈悲を受けるにふさわしくなるのです。そう、「悪いことは己から、よいことはアッラーから」というクルアーンの規律(婦人章79節「あなたに訪れるどんな幸福も、アッラーからであり、あなたに起ころどんな災厄も、あなた自身からである。」)の神秘が示されているのです。  このような比較をさらに行なえば、この不運な男の我欲が彼自身に精神的な地獄を用意したことが理解できるでしょう。もう一方の男のよい考え、よい性格、よいものの見方は彼に大きな恵みと幸福をもたらし、輝かしい徳と恵みをもたらしたのでした。  我が自己よ。そして共にこの話を聞いた人よ。  もし、この不運な兄弟のようになりたくなければ、そして幸運な兄弟のようでありたければ、クルアーンを聞き、その法に従いなさい。それに基づいて行動しなさい。  このたとえ話に秘められた真実を理解したのであれば、教え、世界、人、そして信心の真実をそれに当てはめることができます。重要な部分を私が説明します。細かい部分はあなた自身で考えてみてください。  この二人の兄弟とは、一人が信仰を持つ人の魂、教えに従って生きる人の心です。もう一方は信じない者の魂であり、アッラーの命令を聞き入れない人の心です。二つの道の一つ、右側はクルアーンと信仰の道であり、左側は不信仰、イスラームの否定の道です。  この道にあった庭園とは人間社会であり、人間の文明の中の一過性の社会生活です。その中にはいいこともあれば悪いこともあり、清らかなものと汚いものが共に存在します。知性を持つ人は、「純粋で混じりけのないものを選び、不純で汚れたものは残しなさい」という法に基づいて行動し、心の平安のうちにそこを通過するのです。  そして砂漠とはこの地球、世界です。ライオンは死と寿命です。この井戸は人の肉体であり、生きる時間です。60アルシュンの深さとは、平均的な人の寿命である60年を意味しています。そしてこの木は、寿命であり、生命の為に必要な要素を意味します。白と黒の二匹のねずみは昼と夜です。 […]

第7の言葉

この世界の神秘をひもとく「私たちはアッラーの存在と唯一性、、そして最後の審判の日を信じる」という言葉が、人の魂の為に幸福の扉を開くいかに尊い二つの魔法の鍵であるか、そして忍耐によって創造主を信頼し庇護を求めること、また感謝と共に全ての存在に糧をお与えになるお方に懇願し、ドゥアーすることがどれほど効果的な薬であるか、そしてクルアーンを聞くこと、規定に従うこと、礼拝を行なうこと、罪を放棄すること、これらが永遠の生への旅路においていかに重要で価値のある、驚くべき美しさを備えた切符であり、あの世での糧であり、墓場を照らす光となるのかを理解したければ、次のたとえ話を聞いてください。  ある時一人の兵士が戦い、かつ試練の場にあり、利益と損失という点においても非常に重大な状態にありました。  すなわち、体の左右に恐ろしい、深い傷を受けていました。その後ろでは非常に大きなライオンが彼を攻撃するのを待っているかのようにとどまっていました。目の前には絞首台があり、彼が愛するものたちをつるし、滅ぼしていました。彼をも待ち構えているのでした。そして彼はこの状態で流刑により、長い道を行かなければならないのでした。  このどうしようもない状態の人が、この恐ろしいありさまに絶望している時、、右側から、フドゥルのように善意に満ちた輝かしい人が現れて彼に言いました。 「絶望してはいけない。あなたに二つの魔法の鍵をあげよう。これをよい形で使えば、あのライオンはあなたに従順な馬となるだろう。あの絞首台はあなたが楽しみ、旅をする為の楽しいブランコになる。それからあなたに二つの薬を上げよう。きちんと使えば、そのひどい傷はムハンマドのバラと呼ばれる美しい花に変わるだろう。それからあなたに切符を一枚あげよう。これがあれば一年かかる道でも一日で飛ぶように到達することができるだろう。もしあなたが信じないのなら、少し試してみなさい。本当だということが分かるように」  そう、この私もこれを認めるのです。なぜなら私も少し試してみたからです。そして真実だと分かったのです。  それからこの兵士は、左側からシャイターンのような悪だくみをする男が、様々の装飾を身につけ、人を酔わせる酒と共にやってくるのを見ました。その男は彼に言いました。 「やあ、我が友よ。さあ来なさい、一緒に酒でも飲んで楽しもう。あの美しい娘たちを眺めよう。この素敵な音楽を聞こう。このうまそうな食事を楽しもう」 男「おやおや、こっそり唱えているのは何だ」 兵士「神秘の言葉だ」 男「やめなさい、そんな意味のわからないものは。せっかく楽しんでいるのに。 男「おや、その手にあるものは何かね?」 兵士「薬だ」 男「捨ててしまいなさい。どこに使う必要がある。今は拍手喝さいの為の時なのだ」 男「おや、その五つの印が入った紙は何かね?」 兵士「切符だ。そして任務通知書だ」 男「そんなの破ってしまいなさい。こんな素敵な春の日になぜ旅に出る必要があるのだね」  男はこの計略によって兵士を説得にかかったのでした。さらに、兵士も彼に傾斜しかかっていました。そう、人は騙されるのです。私もまた、そのような欺瞞者に騙されたのでした。  突然、右側から大声が響き渡りました。 「決して騙されてはいけない。その欺瞞者にに言いなさい。『もし背後にいるライオンを倒すことができたら、そしてこの絞首台をどけることができるのなら、体の左右にある傷を治すことができるのなら、そして旅に出ることを拒む手段があなたにあると言うのなら、見せなさい。拝見しよう。その後で、さあ楽しもうと言いなさい。もしできないのならば黙っていなさい』」  若さのうちに笑い、今ではその笑ったことに泣いている我が自己よ。理解しなさい。この追い詰められた兵士とはあなたであり、人間です。ライオンは死の時を意味します。絞首台は死、旅立ち、別離を意味し、昼と夜が移り変わるうちに全ての親友が永遠の別れを告げ、消えておきます。そして二つの傷のうち、一つはうんざりするような人間の限りのない弱さを意味し、もう一つは人間の際限のない無力さを意味します。そしてこの流刑の旅は、魂の世界、母の胎内、子供時代、老年時代、墓場、死後の世界、復活、審判と続く、長い試練の旅路です。そしてこの二つの魔法の鍵とは、アッラーへの信仰、そして来世への信仰です。  この神聖な魔法の鍵によって死は、アッラーを信じる人々にとって、この世という監獄から天国の庭へ、慈悲深いお方への御前へと連れて行く従順な馬、そしてブラーク(天馬)となります。だからこそ、死の真実を理解した完成された人々が死を愛したのです。まだ死が訪れないうちに、死を望んでいたのでした。旅立ちと別離、死、絞首台である時の流れは、この信仰の鍵によって、荘厳さと偉大さをもたれるお方の、鮮やかな奇跡、力、慈悲深さを完全な喜びのうちに目にする為の媒介という形になります。  そう、太陽の光の色彩を見せていた鏡が取り換えられ、新しくされること、映画館のスクリーンが取り換えられることで、より素晴らしく、より美しい光景を示すのです。  そしてこの二つの薬は、忍耐とタワックル(自らのできることを行った後でアッラーを信頼すること)です。創造主の力に頼り、その英知を信頼することです。「それに『有れ。』と仰せになれば、即ち有るのである」(雌牛章第117節)という世界の王アッラーを、無力さという証書と共に頼りにしている人には、何の恐れがあるでしょうか。なぜなら最も大きな災難を前にしても「本当にわたしたちは、アッラーのもの。かれの御許にわたしたちは帰ります」(雌牛章第156節)と言い、心からの確信と共に慈悲深いアッラーを信頼しているからです。そう、アッラーを知る人は、無力さから、アッラーへの恐れから清められます。そう、恐れにも、ある喜びがあるのです。もし1歳の子どもに知性があり、彼に「一番心地よい、快適な状態は?」と尋ねることができれば、おそらくは次のように答えるでしょう。「自分の無力さ、弱さを理解し、母の心地よい叱責を恐れつつ、やはり母の慈悲深い胸に庇護を求めている状態です」しかし、母の慈愛というものは神の慈愛の顕現の一筋の閃光のような反映に過ぎません。だからこそ、完成された人々はその弱さと神への畏怖によって非常な喜びを味わうのです。自分の力、強さから激しく遠ざかり、、アッラーにその弱さと共に庇護を求めたのです。自らの無力さ、弱さが、彼の為のとりなしとなるのです。  もう一つの薬とは、感謝と満足感を持って求め、、ドゥアーし、糧を与えられるお方を信頼することです。この地上全てを恵みの食卓とされ、春の季節を花束とされ、その食卓に添えられ、その上にもふりかけられた、この上なく気前のよいお方の客人にとって、無力であり、多くのニーズがあるということがなぜ苦しみや痛みとなり得るでしょうか。無力さと多くのニーズを持つことはむしろ、心地のよい希望という形を取ります。だから、完成された人たちは、その無力さを誇っていたのです。決して誤解しないでほしいのは、アッラーを前にして自らの無力さを感じ、懇願する、という点です。自分の貧しさを人々に見せつけて物乞いのような立場になるという意味ではないのです。  そしてこの切符、証書とは、礼拝を始めとする義務を果たすことであり、大きな罪を放棄することです。魂の世界について感じたり、何かを見たりすることができる人たちや神の真実を自ら実践することによって理解する、開かれた目を持つ人々は皆一致して、この長く暗い道程において、その糧や灯り、乗り物を、ただクルアーンに従い、禁じられたことから遠ざかることによってのみ手にすることができるとしています。科学や哲学、芸術、知恵といったものはその道においてほとんど価値を持たないのです。これらの光は、墓場の入り口までなのです。  そう、怠惰な自己よ。五回の礼拝を行なうこと、七つの大きな罪から遠ざかっていることはどれほど容易で簡単なことでしょうか。そしてその結果、果実、効果はどれほど重大で大きいものであるか、理性があれば、損なわれていないのであれば理解できるでしょう。そして、罪や快楽への虜となることをあなたにそそのかすシャイターンに、そしてこの男に言いなさい。 「もし死をなくすことができ、この世からの別離、無力さ、窮乏といったものを人間から取り除き、墓の扉を閉じる策があるなら、言いなさい、私も聞きましょう。そうでなければ黙りなさい。クルアーンがこの世界を説いているのを聞きましょう。その光を得ましょう。その庇護のうちに行動しましょう。その言葉を常に唱えていましょう。真実であり、アッラーからのものであり、真実を語り、真実を示し、輝かしい英知を放つものがクルアーンなのです。 「アッラーよ、私たちの心を信仰とクルアーンの光で輝かせてください。アッラーよ、あなたを常に必要としていることを感じることで私たちを豊かにしてください。あなたの慈悲を必要としていることを感じないことによって私たちを困窮させないでください。私たちは自分自身の力や能力を断念し、あなたの力、強さに庇護を求めます。私たちを、あなたを信頼する者としてください。私たちを欲望と共に取り残さないでください。私たちを庇護によってお守りください。私たちに、男性・女性全ての信仰する者に、慈悲をお与えください。しもべや預言者、崇高な位階からあなたが選ばれた友、そして全ての存在の美であり、被造物の王であり、救いの泉であり、導きの太陽であり、様々な証拠の語り手であり、慈悲の例であり、被造物の光であり、誉れであり、被造物の多様性の中での同一性を示す灯明であり、、世界の神秘をひもとき、、あなたが創造主であることを宣言され、あなたが喜ばれる事項を教えられ、あなたの美名を教えられ、しもべたちの教師であられ、世界における論拠の通訳であられ、神性の美の鏡であられ、あなたの顕示の原因であられ、あなたがこよなく愛されるお方、この世界に恵みとして遣わされたあなたの使徒であるお方、預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)に、その家族、親友たちに、その兄弟である預言者たちに、天使たちに、純真なしもべたちに、祝福と平安がありますように。アーミーン」

第6の言葉

بِسْمِ اللّٰهِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيمِ اِنَّ اللهَ اشْتَرٰى مِنَ الْمُؤْمِنِينَ اَنْفُسَهُمْ وَاَمْوَالَهُمْ بِاَنَّ لَهُمُ الْجَنَّةَ 1                    (悔悟章 9:11)  自我や財産をアッラーに差し出し、そのしもべとなること、兵士となることがいかに利益のある取引であり、いかに誉れある位階であるか理解したければ、次のたとえ話を聞いてください。  ある時、ある皇帝が家来の二人に、それぞれに農場を一つずつ与えました。その中には工場、機械、馬、武器等、全てが揃っていました。ただ、激しい戦争のさなかであった為、何もそのままの状態を維持することはできない状態でした。なくなってしまったり、価値を失ってしまったりしていました。  皇帝はこの二人の兵卒に、その完全な慈悲により、非常に行為の役人を派遣しました。とても慈悲深い勅令として、彼らに次のように告げられたのでした。 「あなた方が持っている信託の土地を私に売りなさい。あなた方の代わりに、私が守ろう。無駄にならないように。戦争が終わったらあなた方にもっと良い状態にして返そう。そもそもその信託はあなた方のものであるとするなら、大きな対価をあなた方に支払おう。さらに、機械や工場、道具をを私の名で使おう。それによってその対価も報償も一から千に上がるだろう。その全ての利益を私はあなた方に返そう。さらに、あなたたちは弱くて無力であり、これほど大きな仕事の費用を確保することはできないだろう。その全ての費用と必要なものをを私が確保しよう。全ての収入と利益をあなた方に与えよう。さらに、除隊時まであなた方に持っておいてもらおう。そう、五段階の利益があるのだ。  もし、あなた方が私に売らないのなら、ご覧の通り誰も自分の物を守れない状態にある。皆と同様、あなた方の手からもそれは消えるだろう。無駄になり、その高い値段も得られないだろう。その貴重な、価値のある道具、秤が活用される機会がなくなり、完全にその価値がなくなるだろう。管理と保護の苦労と重荷があなた方に残されるだろう。かつ、信託を守れなかった罰を受けるだろう。そう、五段階の損失があるのだ。  かつ、私に売るということは、私の兵となり、私の名でそれらを管理することを意味する。あなた方は価値のない奴隷ではなく、崇高なスルタンの固有の、自由な高位の兵となるのである」 この素晴らしい言葉と通告を聞き、二人のうちしっかりしている方がこう言いました。 「畏まりました。私は喜んでお売りします。かつ、深く感謝申し上げます」  もう一人は傲慢で、自我がファラオのようであり、自己中心的で、まるで永遠にその農場に住めるかのように、世界で起こっている災いや混乱を知らずにいました。彼はこう言ったのでした。 「いいえ。皇帝とは誰ですか。私は自分の財産を売らない。この快適さを壊すようなことはしない。」  わずかの時間の後、一人目の人は非常に高い地位に上がり、皆がそれをうらやむようになりました。皇帝の恵みを受け、宮殿で幸福に過ごしていました。もう一人は非常に悪い状態に陥り、人々は彼を憐れみつつも「それにふさわしいだけのことはした」と言っていました。なぜなら彼は自分の過ちの結果として幸福と財産を失い、罰を受けているからです。  快楽を追い求める我が自己よ。このたとえ話の真実の側面を知りなさい。この皇帝とは、アザルであられアバドであられ、スルタンであられる、あなたのラッブ、ハールクです。この土地、工場や機械、道具、秤とはあなたが人生でもっている全てのものとその中にある物体、身体や命、心、そしてその中にある目、舌、知性や思いといった目に見える、もしくは見えない器官です。この高官とは預言者ムハンマドです。そしてこの確固たる内容を含んだ通告は、クルアーンです。それはここで触れられている偉大な取引についてこのように宣言しているのです。 اِنَّ اللهَ اشْتَرٰى مِنَ الْمُؤْمِنِينَ اَنْفُسَهُمْ وَاَمْوَالَهُمْ بِاَنَّ لَهُمُ الْجَنَّةَ 2 (悔悟章 9:111)  この激しい戦場は、この揺れ動く世界です。それは止まることなく回り、壊れていきます。そして皆に次のようなことを考えさせます。 「今持っているものは全て失われてしまう。はかなく、失われる。永遠に続く物に変え、永続させる手段はないのだろうか」その時、啓示されたクルアーンの声がそれに応えます。「はい、あります。しかも、五段階の利益があり、素晴らしく、楽な手段があります」 質問:「それは何でしょうか?」 答え:「信託を本当の持ち主に売ることです。そう、その取引には五つの段階の利益があるのです」 1番目の利益:はかなかった物が永続的になります。なぜなら、カイユーム・バーキであられ、ザートゥ・ズルジャラールであられるお方アッラーに差し出され、その道で費やされたこのはかない人生は永遠のものへと変わるのです。永遠の果物を実らせます。その時、人生の一分一分はまるで種、核のような意味を持ちます。見た目には腐ってなくなります。しかし永遠の世界で幸福の花を咲かせます。そしてそれは墓場の世界で光となり、人と共にあるのです。 2番目の利益:天国といった対価が支払われます。 3番目の利益:全ての器官や感覚の価値が一から千にあがります。例えば、知性は一つの道具です。もし、ジャナーブ・ハックに差し出さず、あなた自身のために使えば、有害で苦痛を与える、あなたを不快にする道具となります。過去のつらい悲しみや、将来への大きな恐れを、あなたの無力な頭に負わせる、恵みのない、有害な道具となります。この為に、この罪人は知恵からもたらされる苦しみや痛みから逃れるために何かにふけったり、快楽に逃げるようになるのです。もしアッラーにお売りし、アッラーの為にそれを用いるなら、知恵は魔法の鍵になり、この世にある全ての慈悲の宝庫、英知の宝庫を開けるのです。それによって持ち主を永遠の幸福の為に備える、ラッバーンの道において道を示す人という位階に高めるのです。  例えば、目は一つの感覚であり、魂はこの窓によって世界を見ます。もし、ジャナーブ・ハックにお売りせず、あなたの自我の為に使うのであれば、一時的ではかない美、光景に惑わされ、性欲や自我の悪い要求への導きという低い位階においてその目の奴隷となるのです。もし、目をサーニ・バシールにお譲りし、アッラーの為に、そしてアッラーの許される範囲内で用いれば、その目はこの世界のラッバーニヤの奇蹟の作品を鑑賞し、この地球という庭園の慈悲の花々の祝福された鉢という位階に高められることができるでしょう。  例えば、舌にある味を感じる力を、ファートゥル・ハキームであるお方アッラーにお売りしなければ、我欲の為に、胃袋の為に用いるのであればその時には、胃の納屋や工場の門番という状態に落ちてしまうでしょう。もし、ラッザーク・カリームにお売りすれば、舌にある味を感じる力は、アッラーの慈悲の宝庫の管理者となり、糧をサマダーニヤのお力によって成熟させる台所の、感謝する管理人となるでしょう。  知性よ、注意してください。有害な道具であることと、この世界の鍵であることではどれほどの差があることでしょうか。目よ、よく見てください。醜悪な道案内人と、神の図書館の知識豊かな管理者ではどれほどの差があることでしょうか。そして舌よ、よく味わってください。納屋の門番、工場の番人であることと、神の慈悲の特別な宝庫の管理者であることではどれほどの差があることでしょうか。  そして同様に他の道具や器官について比較すれば、あなたは次のことを理解できるでしょう。すなわち、まさに信者には天国がふさわしく、不信仰者は地獄にふさわしい性質を持つのです。それらが高い価値を得ることの意義は、信者が信仰と共に、ハールクから託されたものをアッラーの名において、アッラーに許された範囲で使うことにあります。信仰しない者は信託を裏切り、悪を唆す我欲の為に用いるのです。 4番目の利益:人間は弱く、多くの敵を持ちます。無力であり、多くのものを必要としています。非力であり、人生の荷は非常に重いものです。もし、カディーリ・ズルジャラールに頼り、信頼し、従わなければ、良心は常に苦痛の中にあります。結果をもたらさない苦労や痛み、悲しみが彼を窒息させます。その結果人は何かにふけったり、怪物のようになったりするのです。 5番目の利益:全ての器官、道具のイバーダやタスビーフと、その高い報酬が、最も必要とされている時に天国の果実としてあなたに与えられることが、真実が示された人々、目に見えない秘められた真実が特別に見せられた人々の見解の一致により明らかにされています。  もしあなたがこの五つの段階の有利な取引を行なわなければ、利益を得ることができないだけれはなく、五つの段階で損をすることになります。 1番目の損:あなたがこれほど愛している財産や子供、崇拝するほどに溺愛している自我や欲望、虜になっていた若さや生命は失われ、あなたの手からなくなってしまいます。しかし、その罪と痛みをあなたに残し、その背に負わせるのです。 2番目の損:信託を裏切ったということで罰を受けます。この上なく価値のある道具を、最もくだらないものの為に費やし、あなたの自我に害を与えたからです。 […]

第5の言葉

بِسْمِ اللّٰهِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيمِ اِنَّ اللهَ مَعَ الَّذِينَ اتَّقَوْا وَالَّذِينَ هُمْ مُحْسِنُونَ 1  礼拝をすること、そして大罪を避けることが、いかに人間にとっての真の義務であるか、いかに人間の性質に適したものであるか、そして人間の創造の目的であるかを知りたければ、次のたとえ話を聞いてください。  戦争中、ある部隊に、一人は教育を受け職務に忠実な兵士、もう一人は未熟で自己の欲望に執着している兵士が共にいました。  職務に忠実な兵士は訓練や戦いに重きを置き、食糧などの必需品については心配することはありませんでした。なぜなら、食糧の確保や軍需用品の供給、病気になった場合に治療すること、さらには年老いた時にものを食べさせることなどは国の役目であると知っていたからです。彼の真の務めは訓練と戦いなのです。ただ彼は食糧や用具に関する仕事も行います。鍋を沸かし、食器を洗い、運びます。「何をしているのか」と聞かれると「国のための雑用を行っている」と答えるのです。「糧を得る為に働いている」とは言わないのです。  もう一人の、食べ物に執着し、未熟な兵士は訓練や戦争に重きを置きませんでした。「それは国の仕事だ、私には関係ない」と言ったのでした。常に自分の生計を考え、部隊を離れ、市場に行き、取引をしていました。  ある時、教育を受けた兵士が彼に言いました。 「兄弟、君の真の務めは訓練と戦いだ。君はその為にここに連れてこられた。皇帝を信頼しなさい。皇帝は君を空腹のまま放っておかれない。それは皇帝の役割だ。そして本来君は無力で弱い。どこでも君自身を養えることはない。さらに、今は戦争、戦いの時だ。君のことを反逆者と呼び、罰を与えるかもしれない。  そう、二種類の仕事がある。一つは皇帝の仕事である。私たちは時にその雑用をも引き受ける。私たちを養ってくださっているからだ。もう一つは私たちの仕事である。皇帝は仕事を容易にすることで私たちを助けてくださる。それが訓練と戦いなのだ」  もしこの未熟な兵士が、この熟練した戦士に耳を貸さないのであれば、どれほど危ない状況になるか、理解できるでしょう。  わが怠慢な自己よ。この危険な戦場は、混沌としたこの世の生活です。いくつかの部隊に分けられた軍は、人間社会です。そしてこの部隊は、今世紀のイスラーム社会なのです。この二人の兵士は、一人はイスラームの命じるところを熟知し、実行し、大きな罪を放棄し、罪を犯さない為に自我やシャイターンと戦う、敬虔なムスリムです。 もう一人は、ラッザーク・ハキーキを非難するほどに自分の生計に必死になり、イスラームの命令を放棄し、糧を得る為に多くの罪を犯す罪人であり、それによって損失を受けているのです。この訓練は、礼拝を始めとするイバーダです。そしてこの戦争は、我執や欲望、ジンや人のシャイターンに対して戦い、罪や道徳的な堕落から心を、永遠の滅亡から魂を守ることです。この二つの仕事は、一つは生命を与えて育むこと、もう一つは生命を与えて糧を与えて下さるお方に従順に従い、懇願することです。そのお方にすがり、信頼することです。  そう、サマダーニヤの芸術的な奇蹟、そしてラッバーニヤの英知の奇蹟である生命を創られたのが誰であれ、その生命を育まれ、継続させられるのもそのお方なのです。他の存在ではあり得ないのです。証明が必要でしょうか?  最も弱く単純な生物(果物につく虫、魚など)が、、最もよい形で育まれるのです。また最も無力で繊細な被造物(子供や動物の仔など)が、最もよい糧を得るのです。  食料を得る機会は、力やニーズによるものではなく、むしろその弱さ、無力さによるものであると生理解するためには、魚と野生のキツネ、動物の仔と獰猛な動物、植物と動物を比較することで十分でしょう。  生計の悩みの為に礼拝を放棄する人は、あの兵士に似ています。訓練を放棄し、市場で物乞いをしているのです。礼拝を行った後で、大地という最も気前のよい供給者の慈悲の台所から食料を求めること、他者の重荷とならない為に自らそれを行うことは立派なことであり、勇敢さであり、それ自体が一つのイバーダなのです。  さらに、イバーダをするために創造された存在であることを人間の性質や人間の精神的なあり方が示しています。なぜなら、現世に必要な行動や能力という点で、人間は小さなスズメにも追いつけないのです。しかし、精神的、来世的な生において必要となる知識や謙虚さ、懇願、そしてイバーダという点で、人は動物の王であり、司令官なのです。  つまり、ああ我が自己よ、あなたが現世を目標とし、常にその為に働く限り、最も弱いスズメの兵卒となってしまうのです。しかし、もしあなたが来世を目標とし、人生を来世のための耕地とし、それに応じて努力すれば、動物達の司令官とされ、ジャナーブ・ハックに愛され、祈りを唱えるしもべ、現世において栄誉を授けられ尊敬されるアッラーの客人となるのです。  そう、あなたには二つの道があります。どちらでも好きな方を選ぶことができます。導きと成功を、アルハムルラーヒミーンであるお方に求めてください。 1 本当にアッラーは、主を畏れる者、よい行いをする者と共におられる。(蜜蜂章 16:128)

第4の言葉

بِسْمِ اللّٰهِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيمِ 1 اَلصَّلاٰةُ عِمَادُ الدِّينِ  礼拝がいかに貴重であり、重要であり、またいかに容易であり、わずかな対価で得られるものか、また礼拝をしない人はいかに無分別で損をしているのかを、2×2が4であることと同じくらい明確に理解したければ、次のたとえ話を聞いてください。  ある時、有力な支配者が二人の召使いに24枚ずつの金貨を与え、二ヶ月かかるところにある、特別な、素晴らしい農場に住まわせる為に彼らを送りました。支配者は彼らに次のように命じました。「そのお金を旅行の費用としなさい。それから向こうで必要なものを買いなさい。ここから一日の距離に駅がある。車や船、列車や飛行機がある。その所持金によって、それに応じた乗り物に乗ることができるのだ」  この二人の召使いは命令を受けた後、出発しました。その一人は幸運な人で、駅までの道のりでお金を少ししか使いませんでした。しかも彼はその支出したお金で、主人が喜ぶような素晴らしい取引をし、所持金が千倍にもなったのでした。もう一人の召使いは運が悪く、心がけもよくなかった為、駅に着くまでに23枚の金貨を使ってしまいました。賭博などにお金を出してしまい、失ってしまったのです。たった1枚の金だけが残りました。  友人は彼に言いました。 「あなたのこのお金で切符を買いなさい。この長い道のりを歩いて行ったり、飢えに苦しんだりする羽目に陥らない為に。我々の主人は寛大だから、おそらくはあなたに慈悲をかけられ、あなたの過ちを許してくださるかもしれない。あなたをも飛行機に乗せてくれるでしょう。一日で目的地につくことができるでしょう。さもなければ一人で、二ヶ月もかかる砂漠を空腹のまま歩いていかなければいけなくなる」  もしこの人が意地を張ってこの忠告にも関らず、この最後のお金で、宝庫の鍵を意味するこのチケットを買わず、はかない享楽の為にそれを費やせば、この上なく無分別で、また損害を受け、不幸であることは誰でも理解できるでしょう。 そう、礼拝をしない人よ!そして礼拝に満足しない我が自己よ! この支配者は私たちのラッブであり、ハールクなのです。二人の召し使いの旅人は、一人は信心深く、礼拝を喜んで行う人です。もう一人は不注意で、礼拝をしない人を意味します。24枚の金貨は24時間の毎日の人生を意味します。その特別な農場は天国です。駅は墓です。その旅は墓、復活、永遠へと至る人間の道のりです。その人の信仰の強さやレベルによって皆それぞれの速度で、その長い道中を進みます。一部の篤信の持ち主は稲妻のように千年の道のりを一日で通過します。また一部は幻想のように5万年の道のりを一日で進みます。クルアーンはこのことを二つの節で言及していいます。 「かれは、天から地までの(凡ての)事物を統御なされる。それからそれ(万有)は一日にして、かれの許に登って行く。その(一日の)長さは、あなたがたの計算する千年である。」(アッ・サジダ章 32:5) 「天使たちや聖霊(大天使ジブリール)は、一日にして、かれの許に登る、その(一日の)長さは、5万年である。」(階段章 70:4)  この切符は礼拝です。一時間あれば5回の礼拝とウドゥーに十分です。23時間をこの短い現世での生のために費やし、来世での永遠の生のためにたった一時間さえも費やさない人は、どれだけの損をし、いかに彼自身を苦しめ、理性に反することをしていることでしょうか。  もし千人の人が参加する宝くじに、財産の半分をかけることを理性で受け入れることができるのであれば‐実際には当たる可能性は千分の一ですが‐財産の24分の1を、99パーセントの確率で利益を生み出す永遠の宝庫に与えないことは、いかに理性や英知に反することであるか、知性からかけ離れたことであるか、自らを知的であると思っている人にはり枚できるでしょう。  礼拝には、魂、心、理性の大きな安楽があります。加えて礼拝は身体的に重いものではありません。また礼拝をする人は、普段の生活する中での行為も、意志をしっかり持っていればイバーダになります。こうして人生という資金で来世を自分のものにすることができるのです。つまりはかない生涯をこうして永遠にすることができるのです。 1・「規定された礼拝は、宗教の柱である」(ティルミズィー・イーマーン8)

第3の言葉

بِسْمِ اللّٰهِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيمِ يَۤا اَيُّهَا النَّاسُ اعْبُدُوا1                (雌牛章 2:21)  イバーダ(崇拝行為)がいかに大きな取引であり、幸福をもたらすものか、罪を犯すこと、アッラーに従わないこと、快楽にふけることがどんな大きな害であり、そして滅亡に到らせるものであるかを知りたければ、次のたとえ話を聞いてください。  ある時、二人の兵士が遠い町へ向かうよう命令を受け、一緒に出発しました。しばらくして、その道は二つに分岐しました。一人の人がそこにいて、彼らにこう言いました。 「この右の道には害がなく、そこを行く旅人の九割は大きな利益と楽な旅を得ることができます。左の道は利益がなく、かつ九割の旅人は被害を受けます。両方の道は同じ距離です。ただし、二つの道には違いがあります。規律がなく管理もされていない左の道は、荷物も武器もなしに行くことができます。右の道は軍の管理の下にあり、たくさんの食料を詰めた、20キロもある荷物を持ち、また誰にでも勝てるようなかなりの重さのある、国の武器を運ぶ必要があります」  二人の人がこの男性の話を聞いた後、幸福な兵士は右に向かいます。彼は8キロもある重い荷物を肩と腰に載せました。しかし同時に彼の心と魂は、不安や旅の恐怖を逃れることができました。  もう一人の不運な兵士は兵役を好まず、規律に従いたくもなかった為に左に向かいます。彼の体は荷物の重さから救われますが、道中、彼の心は助けを受けた人々への負いの意識と、限りない恐怖に押しつぶされることになります。皆に助けを乞うようになり、また全ての出来事に対して恐れ慄くようになったのです。やがて目的地に到着したものの、そこでは、反逆者、逃亡者として罰せられたのでした。  軍の秩序を好み、荷物と武器を携えて右の道を行った兵士は、誰の世話も受けることなく、誰も恐れず、心と良心の安らかさのうちに進みます。やがて、目的地である町に入ります。そこでは、自分の義務をきちんと果たした、名誉ある兵士にふさわしい褒賞が与えられたのでした。  さあ、聞き分けの悪い我が自己よ!その二人の兵士のうち、一人はアッラーの敬虔なしもべであり、もう一人は反抗的で、自らの気まぐれに従う者なのです。この道とは人生の道であり、霊魂の世界から来て、墓場を通り、来世へと続くものです。その荷物と武器は、イバーダと篤信を意味するのです。イバーダは確かに、一見重いことのように見えます。しかし実際、そこには大きな安らぎと容易さがあり、言葉では説明できない程です。なぜなら、イバーダを行なう者はその言動の中で、「アシュハドゥ アン ラーイラハ イッラッラー 私はアッラー他に神はないと証言します」と言います。つまり「ハールクとラッザークはアッラー以外に存在しない。良いことであれ悪いことであれ、全てはアッラーからである。アッラーは絶対的な存在であり、無駄なことをされない。慈悲あまねき存在であり、アッラーの慈愛と恵み深さは有り余るほどである」と信じており、あらゆる事態においてアッラーの豊かな慈悲の扉を見いだし、祈りをもって扉をたたくのです。そして、全ての存在がそのラッブの指示に従うことを目にします。彼はラッブの庇護に入り、アッラーを信頼し、完全に服従して、全ての悪い出来事から庇護を求めます。信仰は彼に完全なる安心感を与えるのです。  そう、全ての真によいことは無論のこと、勇気の源でさえ信仰とイバーダにあるのです。あらゆる悪い行為はいうまでもなく、恐怖心の源も、信仰からの逸脱に存在します。  完全な信仰を持つ人であれば、仮に地球が爆弾となり爆発しても、彼を恐れさせることはないのです。心が信仰によって輝かされた人は、地球が爆弾になって爆発すれば、サマダーニヤであるお方の素晴らしい力に感動しながら、驚きの目で見守るでしょう。しかし、有名であり、教養があり、高い理性を持ちつつも信仰のない哲学者は、天に流れ星を見たといって地で恐怖に震えるのです。「この流れ星は地球にぶつからないだろうか」と妄想を抱くのです。(昔、このような流れ星のせいであの巨大なアメリカが震えたことがありました。多くの人が夜中に家から外に逃げたのでした)  人間は数え切れないほどのものを必要としているのに、十分なものを持っていない存在です。人生の中で無限な災難を受けつつも、自ら何もできることはないのです。その富や力は、ちょうどその両手の範囲ほどに限られています。しかし、その希望、願い、苦悩と災難は、視野と想像が許す限りどこまでも広がるほど広大なものです。これだけ無力で弱く、貧窮さに苦しむ人間の魂にとって、崇拝行為、アッラーへの信頼、信仰、そして自らをアッラーに委ねることがいかに大きな利益であり、幸せであり、恵みであるかということは誰でも理解できるでしょう。  当然のこととして、一割の可能性であったとしても、害のある道より、害のない道が選ばれます。しかしこのイバーダの道には、害はなく、九割が永遠の幸せという宝物に到るのです。不信仰者、逸脱者の道は、(彼ら自身も告白しているように)無益であり、九割の確立で永遠の苦悩に陥ることが、様々な証人たちの証言によっても確かなのです。  つまり、来世と同様、現世の幸福も、イバーダとアッラーの兵卒であることに存在するのです。だから私たちはいつでも「アッラーの道における従順と成功のため、アッラーに讃えあれ」といい、ムスリムであることをアッラーに感謝しなければならないのです。 1 人びとよ。あなたがた、またあなたがた以前の者を創られた主に仕えなさい。

第2の言葉

بِسْمِ اللّٰهِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيمِ اَلَّذِينَ يُؤْمِنُونَ بِالْغَيْبِ                (雌牛章2:3)   信仰に、どれほど大きな幸福と恵みがあるか、そしてどれほど素晴らしい味わいと安らぎがあるか理解したければ、次のたとえ話を聞いてください。 ある時、二人の男が楽しみと貿易の為に旅にでました。うぬぼれの強い人は、ある方向に向かい、もう一方の神の存在を知る人は別の方向へ向かいました。 うぬぼれの強い人は、自己中心的で、かつ悲観的でした。そのため、彼が行ったところはかなりひどい場所のように感じられました。どこを見ても、貧しく希望を失った人々が弾圧に苦しみ、泣き叫んでいました。行く先々で同じような悲惨な風景を目にしました。その場所全体が嘆きの家のようでした。彼はこの悲しく、暗澹とした様子を見ないように、酔っぱらっているしかないと考えました。なぜなら皆、彼にとって敵であり、見知らぬ人のように見えるからでした。そしてあらゆる場所に存在する死体や、泣く孤児などを見て、良心の痛みをも感じていたのでした。   もう一方の神に仕える人は、信心深くよい徳を備えていました。その為、彼が行った場所はとても素晴らしい場所だと感じられました。この善良な人は、この場所で人々が祭りを楽しんでいるのを目にしました。あらゆるところに幸福、楽しさがあり、そしてアッラーへの熱情と喜びに満たされたズィクルの家がありました。皆彼にとって親友や親戚のように見えました。この町全体で、喜びや感謝を伴う、解放を祝う祭りがありました。タクビール(アッラーは偉大であると唱えること)とタフリール(アッラー以外に神はいないと唱えること)と共に、喜びに満ちた入隊式があり、太鼓が音楽の音が聞こえていました。   一人目の人は、自分の悲しみと人々の悲しみの為に非常に落ち込んでいたのに対し、この幸福な人は自分と人々の幸福の為に幸せを感じ、かつ安らいでいました。さらに、貿易もうまくいき、アッラーに感謝しました。  それから彼は帰ってきて、先の人に会いました。彼の状態を理解し、彼に言いました。 「ああ、あなたはおかしくなってしまった。あなたの内面にある醜さが外面に反映されているのでしょう。だから、あなたは笑うべきことに泣き、義務からの解放を剥奪と思いこんでいるのです。良識を取り戻し、心を清めなさい。これらの災いの覆いが目から取り除かれ、真実を見ることができるでしょう。なぜなら実に公正で、慈悲深く、しもべによく振る舞われ、力強い、秩序を愛し、いたわり深い支配者が存在するのです。この発展し、成熟した町は、あなたの妄想が示すようなものではあり得ないのです」   するとこの人は良識を取り戻して後悔しました。「その通りです。私は酒を飲んでいるうちに正気を失っていたのでしょう。ありがとう。地獄に行くべき状態からあなたが助けてくれました」と言ったのでした。   我が自己よ。一人目の人は、不信仰者を象徴しているのです。彼にとってこの世界は悲嘆を意味します。全ての生き物は、離別や消滅のせいで泣いている孤児のようです。彼にとって人間と動物は、死の時という爪につぶされる、何の助けもなく放っておかれるものなのです。海や山のような大きな被造物は彼の目には、魂のない恐ろしい死体のように見えました。このような悲しみや不安、恐ろしい妄想は不信仰や逸脱から生じるもので、彼を精神的に罰しているのです。   二人目の人は、信者です。彼は全能なるアッラー存在を信じ、その正しさを認めています。彼の観点からは、この世界は人々がアッラーをたたえる場であり、人類と動物の心身の鍛練の場、そして人間とジンの試練の場なのです。全ての人間と動物の死はこの世からの解放です。生という役目を終えた者は、次に役目を負う者に場所を空け、このはかない現世から満ち足りた気持ちで苦労のない来世へ行くのです。次の存在がやってきて努力を行うことができるように。   あらゆる人間や動物の誕生は入隊すること、任務に就くことを意味します。全ての生き物は割り当てられた仕事に満足している将校、従業員のようです。その町で聞こえてくる音は、仕事にかかる時のズィクルとタスビーフ、そして仕事を終えた時の感謝、開放された気持ち、あるいは働く幸せを表現する言葉です。全ての被創造物はこの信者の観点からは、サイーディ・ケリーム、そしてマーリキ・ラヒームの従順なしもべであり、親友である役人であり、愛らしい書物なのです。このような多くの神聖なる、そして心地よい真実は、彼の信仰を反映し、生じているものなのです。   つまり信仰は、精神的な意味で天国のシドラの木の種を内包するのです。不信心にも精神的な意味で地獄のザックム(夾竹桃)の種が隠されているのです。   つまり平安と信頼は、ただイスラームと信仰にあるのです。だから私たちは常に、「私たちにくださったイスラームの宗教と信仰の完璧さのために、アッラーに讃えあれ」と言うべきなのです。

第1の言葉

「ビスミッラーヒッラフマーニッラヒーム(慈悲深い慈愛遍くアッラーの御名において)」という言葉はあらゆる善の始まりです。私たちは何をするにもその言葉で始めます。我が自己よ、知りなさい。その神聖な言葉はイスラームのしるしであり、全ての被創造物が唱える言葉なのです。  「ビスミッラー」という言葉がいかに偉大であり、無尽蔵の力であり、無限の恵みでもあるかということを知りたければ、次のたとえ話を聞いてください。  アラビアの砂漠を行く旅人は、部族長の名前を得て、その庇護のもとで旅をしていました。そうでなければ盗賊などの害を避けることも、旅の必需品を賄うこともできなかったのです。単独では数え切れないほどの敵が存在し、必需品を満たすこともできませんでした。  ある日、二人の旅人がアラビアの砂漠を進んでいました。その一人は謙遜な人で、もう一人はうぬぼれ強い人でした。謙遜な方はある長の庇護下に入りましたが、うぬぼれ強い方はそうしませんでした。長の名前を得た旅人は、あらゆる場所で安全な旅を過ごしました。盗賊に出くわすと彼はいつも「私はこういった長の保護をいただいている者です」と言い、盗賊は彼を苦しめることなく去っていきました。彼がテントに入ると、その長の名前のお陰で敬意を払われました。一方で、不遜なもう一人の男は、その行程において常に言葉で言い表せないほどひどい目にあいました。ついには、恐怖で全身を震わせ、物乞いをするまでに陥り、惨めな状況でした。  さあ、不遜な私の魂よ。あなたはこの旅人で、この世はその砂漠のようなものなのです。あなたの弱さ、無力さは限りのないものです。あなたの敵も、あなたが必要とするものも、数えきれない程です。だから、この広い世界の永遠のマーリキ・エベディであり、ハーキム・エゼリーであるお方の美名を得てください。そうしないとあなたは、この世の無限の被造物に頭を下げ、あらゆる出来事におびえることから救われないのです。  この言葉はとても神聖な源です。この言葉は、あなたの限りのない弱さ、無力さ、そしてあなたを無限の力、慈悲に結び付け、カーディリ・ラヒームでお方の御前でその弱さ、無力さは最も受け入れられるとりなしを行います。そう、この言葉によって行動する人は、軍に入り、国家と法の名の下で、あらゆることを行い、あらゆることに耐える人に似ているのです。  冒頭で触れたように、全ての被造物は声に出さずとも「ビスミッラー」を唱えています。  例えば、一人の人がある町に来て、そこの人たちを皆どこか別のところに移動させ、働かせたとすれば、それを目にした者はあることを理解するでしょう。すなわち、その男は自分の力で、あるいは自分の名においてそういうことが出来るのではなく、彼は兵士であるに違いなく、国家の名の下に行動し、国の長の力でそれらを行ったのだということです。  このように、全てのものはアッラーの名のもとに動いているのです。例えば、小さな種が山のように大きなその樹木を持ち上げています。この世の中の樹木は全て、ビスミッラーと唱えながら、慈愛深き方の恩恵である様々な果物をその枝につけ、我々人間に食べさせてくれるのです。アッラーの恩恵を我々にもたらしてくれるのです。また、全ての耕地はビスミッラーを唱え、全知全能のお方の力により、同じ土の中で多様な種類の作物を作り出します。牛・ラクダ・羊なども、一頭一頭がビスミッラーを唱え、その体の中で、ラッザークであるお方の名において草だけを原料に、味のよい、清純な生命の水のような飲み物を作り出すのです。これは現代の科学技術でも真似の出来ないことです。動物たちはアッラーの名においてこそ、人体に数え切れないほどの効能を持つ、最も繊細で純粋な飲み物を私たちに与えるのです。全ての植物、草の葉、根や茎もまた、ビスミッラーを唱えます。草の、絹のように柔らかい根や繊維は「アッラーの御名において、ラフマ―ンであるお方の御名において」と唱えながら、堅い岩や土を貫いて地中を進みます。慈悲深いお方の御名、アッラーの御名を唱え、全てがアッラーの御名と共になされるのです。  全ての被造物は心でビスミッラーと唱えており、アッラーの御名において、アッラーの恵みを我々にもたらしてくれます。だから、私たちもまた、ビスミッラーと唱えるべきなのです。アッラーの御名において与え、アッラーの御名において受け取るです。アッラーの御名において与えない、思慮のない人間からは、我々はなにも受け取るべきではないのです。 質問:売り手である人に、私たちは一定の代金を払います。真の所有者であるアッラーはどれほどのものを求められるでしょうか。 答え:そう、このムニーミ・ハキーキであるお方が求められる対価とは、以下の三つです。忘れないこと、感謝すること、熟考することです。  あらゆることの始めにビスミッラーを言うことは、アッラーを忘れないための方法であり、あらゆることの終わりにアルハムドリッラー(アッラーに賞賛と感謝あれ)と言うことは、感謝する為の方法です。アッラーを熟考するとは、常にアッラーの恩恵に注意深くあることです。アハド、サマドであるお方の力の奇蹟として、アッラーの慈悲による贈り物として、我々が受け取っている素晴らしく、精巧な恵みについて考えることです。支配者からの高価な贈り物を運んできただけの人に感謝し敬意を払い、その贈り物の真の主を知らないことは、非常にばかげたことです。ムニーミ・ハキーキであるお方を忘れて、見かけ上の贈り主を愛することは、非常に愚かな行為なのです。  我が自己よ、もしそのような愚行を避けたいならば、アッラーの御名において与え、アッラーの御名において受け取りなさい。アッラーの御名において始め、アッラーの御名において行うのです。

言葉

وَبِهِ نَسْتَعِينُ اَلْحَمْدُ لِلّٰهِ رَبِّ الْعٰالَمِينَ وَالصَّلٰوةُ وَالسَّلاَمُ عَلٰى سَيِّدِنَا مُحَمَّدٍ وَعَلٰۤى اٰلِهِ وَصَحْبِهِ اَجْمَعِينَ 兄弟よ!あなたは私に忠言を求めていました。あなたは一人の兵士であるから、軍に関連するたとえ話を通していくつかの真実を私の自我と共に聞いてください。なぜなら誰よりも私の自我がこの忠言を必要としているからです。かつて8つのクルアーンの言葉を基にした8つの言葉を、少々長い形でわが自我に語ったものでした。今度は短く庶民的な言葉でわが自我に語ります。誰でも望む人は共に聞いてください。

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