第8の言葉

بِسْمِ اللّٰهِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيمِ

اَللهُ لاٰۤ اِلٰهَ اِلاَّ هُوَ الْحَىُّ الْقَيُّومُ 1

             (雌牛章 2:255)

اِنَّ الدِّينَ عِنْدَ اللهِ اْلاِسْلاَمُ 2

                (イムラーン家章 3:19)

 この世界、そしてこの世界にある人の魂、そして人における宗教のあり方と尊さ、そしてもし正しい教えがなかったとしたら世界は監獄となっていたこと、教えを持たない人が最も不運な被造物であること、そしてこの世界の鍵を開き、人の魂を闇から救うのが「ヤー アッラー」と「ラー イラーハ イッラッラー」であることを理解したければ、次のたとえ話を聞いてください。

 昔、二人の兄弟が共に、長い旅に出かけました。そのうちに道が二つに分かれました。分岐点に、真剣な男がいるのを彼らは目にしました。そしてその男に尋ねました。

「どちらの道がいいでしょうか?」

男は彼らに言いました。

「右の道では、規律や秩序に従う必要があります。しかしその困難の中に、安全や幸福があります。左の道には自由があります。しかしその自由の中には危険や不運があります。どちらを選ぶかはあなた方しだいです」

 これを聞いた後、よい性質の兄弟は右の道へ、「アッラーに庇護を求め、信頼しました」と言って進んでいきました。そしてそこでの規律や秩序を受け入れていました。道徳心に欠けるもう一人の兄弟はただ自由の為に左の道を選びました。一見、容易で、実際には困難な状態で道を進むこの人の後をしばらく辿りましょう。

 彼は沢を超え、丘を越えて進んでいくうちに、何もない砂漠に入りました。突然、大きな声が聞こえました。ライオンが木々の間から飛び出してきて彼を襲ってきたのを彼は目にしました。彼は逃げ、60アルシュンの深さの水のない井戸に行きつきました。恐怖のあまり、彼はその井戸に飛び込みました。井戸の中ほどまで落ちたところで、彼の手が木に引っかかりました。井戸の壁から生えているその木には、二本の根がありました。その根を白と黒の二匹のねずみが噛み切ろうとしていました。彼は上を見ました。ライオンが、当番兵のように井戸のそばで待ち構えていました。下を見ると、恐ろしい怪物がそこにいました。頭を持ち上げ、30アルシュンの高さに井いる男の足に近づいて来ていました。その口は井戸の口と同じ位大きいものでした。井戸の内壁を見ると、そこには有害な、毒を持ったかみつく虫がびっしり張り付いていました。木の先を見ると、それはいちじくの木でした。しかしいろいろな種類の果実、クルミやザクロまでがそこに実っていたのでした。

 しかしこの男はその理解力のなさゆえに、この状態が通常のことではなく、偶然に起こるものでもないということを理解していませんでした。この奇妙な出来事には秘められたものがあり、それを実現化させている大きな存在があることを把握できずにいました。

 彼の心や魂、理性はこのひどい状態に陥ったことに嘆き悲しんでいるにも関らず、彼の自我はあたかも何も起こっていないかのように知らんぷりを決め込み、魂や心の泣く声にも耳をふさぎ、自分自身を偽り、あたかも果樹園にでもいるかのように、その木の果物を食べ始めたのでした。しかしその果実のいくつかは毒があり、有害なのでした。

 あるハディースでジャナーブ・ハックは「しもべが私のことをどのように認識するのであれ、私も彼にそのようにふるまう」と仰せられています。この不幸な男は、邪推と理解力のなさにより、彼が目にしたものをありきたりで現実のできごとだと思い込みました。死ぬことも生きることもなく、この状態で罰を受けたのです。私たちもこの男をここに置いて戻り、もう一人の兄弟の状態を確認しましょう。

 この、素晴らしい理性を持った人は進んでいきます。しかし兄弟のような苦労はしていません。なぜなら、よい徳を備えている為、よい形で考え、よいことを想像し、自分自身の友となっているからです。さらに兄弟のように苦労したり苦痛を味わうこともありません。なぜなら規律を知り、それに従い、それを容易としていくからです。法に従い、安全のうちに自由に道を進んでいきます。

 やがて彼はある庭園に行きつきました。そこには美しい花や果実があり、同時に手入れをされていない為に汚いものもありました。彼の兄弟も同じような庭園に入っていました。彼はこの汚いものにこだわってしまい、吐き気を催していました。そのため全く休むことなくそこから去っていました。こちらの男は「物事のよい面を見なさい」という規則に従って行動し、汚いものを一切見ずにいました。美しいものを十分に利用したのでした。そして存分に休憩してからそこを離れたのでした。

 それからさらに進んで、兄弟と同じようにこの男も大きな砂漠に入りました。突然、彼を襲うライオンの声を聞き、びっくりしました、しかし兄弟ほどに怖がりはしませんでした。なぜなら、よい受け止め方をし、よい考えで「この砂漠には支配者がいるはずだ。このライオンはその支配者の命令に従う奉仕者なのかもしれない」と考え、慰めを得たのでした。

 ただ、やはり彼は逃げました。60アルシュンの深さの水のない井戸に行きつき、その中に飛び込んだのでした。兄弟と同じように、井戸の半ばでその手が木に引っかかり、宙吊りになりました。二匹の動物がその木の根を噛み切ろうとしているのを見ました。上を見るとライオンがいて、下を見ると怪物がいました。兄弟と同じように驚くような状態に陥ったのでした。彼もまた恐れを抱きましたが、彼の兄弟の恐怖に比べると1000倍軽いものでした。なぜなら彼のよい徳は、彼によい思考を与え、よい思考は、彼に全てのもののよい面を彼に示したからです。そう、その為に彼は次のように考えたのでした。

「この奇妙な出来事は互いにかかわりがある。しかも一つの命令に従って動いているように思える。つまりここには何かが秘められているに違いない。これらは秘められた支配者の命令で動いているのだ。ということは私は一人ではない。この秘められた支配者が私を観察し、私を試し、何か目的があって私をある場所に招いているのだ」

 この甘美な恐れとよい思想から、一つの関心が生まれます。

「私を試し、自らの存在を私に知らせることを望み、この奇妙な手段で、私を何かの目的の為に呼ぼうとしているのは誰なのだろうか」

 そして知りたいという関心から、この秘められた存在への愛情が生じました。そしてこの愛情から、秘められた謎を解く希望が生じました。そしてこの希望から、その神秘の主の満足される、気に入られるよい状態となりたいという意志が生じました。

それから彼は木の先端を見て、それが無花果の木であることを理解しました。しかしその先端には何千もの種類の果実がありました。それを見て彼の恐怖は完全に消えてしまいました。なぜなら、彼はこのイチジクの木があるリストであり、一覧であり、展示であることを確信したからです。秘められた支配者が、果樹園や畑にある様々な種類の果実を、その神秘と奇跡によってその木に取り付け、彼自身の客の為に用意した糧の見本という形でこの木を飾ったのに違いないのです。そうでなければ、一本の木が何千もの種類の果実を実らせることはありえないからです。

 それから彼はドゥアーを始めました。この秘められた力の鍵が彼にひらめきを与えたのでした。

「ああ、この土地の支配者よ。私の運命はあなたに委ねられました。あなたに庇護を求めます。私はあなたへの奉仕者です。あなたのご満悦を求めています。あなたを求めています」

 そしてこのドゥアーの後、突然井戸の内壁が二つに分かれ、清らかで美しい庭園への扉が開かれました。あの怪物の口がその扉に変ったようでした。そしてライオンと怪物は二人の召使いとなり、彼を扉の内側へと招きました。さらにこのライオンは、彼の為の従順な馬となりました。

そう、怠惰な我が自己よ。そして想像上の我が友よ。来なさい、この二人の兄弟の状況を比較してみましょう。善がどのようなよい結果をもたらし、悪がどのような悪い結果をもたらすのかを知りましょう。

 左側の道を行った不運な旅人は、常に怪物の口の中に落ちるかもしれない状態にあります。もう一方の幸運な男は、果物の実る、気持ちのよい庭園へ招待されています。

 不運な男はひどい災難と恐怖の中で心が砕けるような目にあいました。幸運な男は、心地よい警告や軽い恐怖、そして気持ちのいい出会いのうちに、この奇妙な出来事を喜んで眺めています。

 不運な男は失望と孤独のうちに苦しんでいます。しかし幸運な男はそれになじみ、希望と喜び、強い願望の中で喜びを味わっているのです。

 不運な男は自らを猛獣の攻撃にさらされた囚われ人と見なしています。幸運な男は誉れ高い一人の客であり、気前のよいホストの、風変わりな召使いたちと友情を築き、楽しんでいます。

 さらにこの不運な男は、一見おいしそうであり、実際には毒入りかもしれない果実を食べることによってその罰をより早く招いているのです。なぜならこれらの果実は見本なのです。本物を求めているのなら、味を見ることは許されます。しかし動物のようにそれらを食べつくすことは許されないのです。幸運な男はそれを味わい、それについて十分に理解し、食べることは後回しにします。待つことによっても楽しみを味わうのです。

 そして、不運な男は自らを苦しめたのです。明らかに素晴らしい真実と輝かしい状況を、その思慮のなさによって暗く深い闇の妄想、一つの地獄としてしまったのです。慈悲を受ける権利もなければ、誰かを非難する権利もないのです。例えば、人が美しい庭園で、友人達に囲まれ、心地よい気候の中楽しい宴を行っているのに、それに満足せずに穢れた酒に逃避し、酔っ払い、それによって自らを真冬に怪物に囲まれ、空腹で裸であると思い込んで泣き始めたとしたら、同情には値しないのです。彼自身が自らを苦しめており、親友を怪物と思い込んでいるのです。そう、この不運な男もこのような状態にあったのでした。

 幸運な男の方は、真実を見ています。真実は美しいものです。真実の美しさを理解することによって、その持ち主の完全さを敬うようになります。そして、その慈悲を受けるにふさわしくなるのです。そう、「悪いことは己から、よいことはアッラーから」というクルアーンの規律(婦人章79節「あなたに訪れるどんな幸福も、アッラーからであり、あなたに起ころどんな災厄も、あなた自身からである。」)の神秘が示されているのです。

 このような比較をさらに行なえば、この不運な男の我欲が彼自身に精神的な地獄を用意したことが理解できるでしょう。もう一方の男のよい考え、よい性格、よいものの見方は彼に大きな恵みと幸福をもたらし、輝かしい徳と恵みをもたらしたのでした。

 我が自己よ。そして共にこの話を聞いた人よ。

 もし、この不運な兄弟のようになりたくなければ、そして幸運な兄弟のようでありたければ、クルアーンを聞き、その法に従いなさい。それに基づいて行動しなさい。

 このたとえ話に秘められた真実を理解したのであれば、教え、世界、人、そして信心の真実をそれに当てはめることができます。重要な部分を私が説明します。細かい部分はあなた自身で考えてみてください。

 この二人の兄弟とは、一人が信仰を持つ人の魂、教えに従って生きる人の心です。もう一方は信じない者の魂であり、アッラーの命令を聞き入れない人の心です。二つの道の一つ、右側はクルアーンと信仰の道であり、左側は不信仰、イスラームの否定の道です。

 この道にあった庭園とは人間社会であり、人間の文明の中の一過性の社会生活です。その中にはいいこともあれば悪いこともあり、清らかなものと汚いものが共に存在します。知性を持つ人は、「純粋で混じりけのないものを選び、不純で汚れたものは残しなさい」という法に基づいて行動し、心の平安のうちにそこを通過するのです。

 そして砂漠とはこの地球、世界です。ライオンは死と寿命です。この井戸は人の肉体であり、生きる時間です。60アルシュンの深さとは、平均的な人の寿命である60年を意味しています。そしてこの木は、寿命であり、生命の為に必要な要素を意味します。白と黒の二匹のねずみは昼と夜です。

 そしてこの怪物は、墓が入り口である、死後に魂が通る道を意味しています。しかしその口は信者にとってはこの世という監獄から庭園へと開かれた扉なのです。この害虫たちは、この世における災いを意味しています。しかし信者にとっては、のんきさに溺れてしまわないための神の警告であり、慈悲深い神の恵みなのです。

 そしてこの木に実っている果実は、現世の恵みです。慈悲深く気前のよいお方アッラーはこれらを天国における恵みのリストとして、同時に警告として、そして類似品として、天国の果実へと客たちを招く見本として造られたのです。

 この木が一本であるにも関らず、様々な種類の果実を実らせることは、何も必要とされず、また全ての被造物がその存在を必要とするお方であるアッラーの力のしるしであり、アッラーが全てを創造され、それぞれの必要なものを与えられ、導かれることのしるし、そして一切の類する者の存在を認めないアッラーの統治のしるしです。なぜなら、一つのものから全てを作り出す、すなわち、大地からあらゆる種類の植物、果実を創造すること、一滴の水から全ての動物を作られること、単純な食べ物から生物の臓器を作られること、また一方で全てのものを一つにすること、すなわち、その生き物が食べた無数の種類の食べ物がその動物の肉となること、皮膚になること。これらは、唯一であり、全てのものによって必要とされ、かつ御自身は何ものをも必要とされないお方、始まりも終わりもない支配者のしるしです。模倣することの不可能なしるしなのです。そう、一つのものから全てを作られ、また全てのものを一つにされるということは、全てのものを創造されたお方、無限の力の主であるお方にのみ特有のしるしなのです。

 そしてこの秘められた力とは信仰の神秘であり、創造の神意の秘密です。

この鍵とは、「アッラーよ、あなたの他に神はない」、「アッラー、かれの他に神はなく、永生に自存される御方」という言葉です。

 あの怪物の鍵が庭園への扉に変ったことは、次のことを意味しています。つまり墓とは、信じようとしない人々にとって孤独と忘却の中にあり監獄のように苦しく、怪物の腹のような狭い墓につながる扉です。それにもかかわらず、クルアーンを読み、信仰を持つ人々にとってはこの世という監獄から永遠なる庭園へ、試練の場から天国の庭へ、この世の苦労から無限の慈悲の主であるアッラーの慈愛へと開かれた扉なのです。

 そして、ライオンが親しげな召使いに、それから忠実な馬になったことは、次のことを意味しています。すなわち、死は、信仰を持たない人にとって愛する全てのものとの永遠の別離です。さらに、現世という偽りの天国から出され、孤独と苦しみの中、墓場という監獄に移され、閉じ込められることです。しかし信仰を持つ人にとって死は、あの世に去って行った昔の親友や愛する人々と再会する手段なのです。そして真の祖国へ、永遠の幸福の地に入る手段なのです。現世という監獄から天国の庭園への招待状です。慈悲深い神の恵みによって、それまでの行いにふさわしい報奨を受け取る場でもあるのです。生という困難な任務からの退役でもあります。そしてしもべとしての服従や試練という鍛錬からの休息でもあるのです。

要約

 誰であれ、このはかない生を真の目標とするなら、一見天国にいるように見えたとしても、精神的には地獄にいるのです。そして誰であれ永遠の生を真剣に求めるなら、この世とあの世、二つの世界における幸福を得ることになります。この世界がどれほど困難で苦しいものであったとしても、この世を天国への待合室と見なし、それによって甘受し、忍耐し、忍耐のうちに感謝をするのです。

アッラーよ、我々を、幸福で安らいだクルアーンと信仰の民にしてください。アーミーン。

 アッラーよ、預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)とその家族、教友たちに、クルアーンが最初に啓示されてから今までクルアーンを読んだ全ての人々の一語一語、慈悲深い神の御赦しによって顕示された一つ一つの句の、全ての文字の数だけ、祝福と平安がありますように。そしてその数だけ、我々に、母に、父に、男女全ての信者に、その慈愛によって慈悲をお与えください、慈悲深い上にも慈悲深いお方よ。アーミーン。

 諸世界の主アッラーに感謝いたします。

1 アッラー、かれの他に神はなく、永生に自存される御方

2 本当にアッラーのの教えは、イスラーム(主の意思に、帰依すること)である

第8の言葉

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