第9の言葉

بِسْمِ اللّٰهِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيمِ

فَسُبْحَانَ اللهِ حِينَ تُمْسُونَ وَحِينَ تُصْبِحُونَ وَلَهُ الْحَمْدُ فِى السَّمٰوَاتِ وَاْلاَرْضِ وَعَشِيًّا وَحِينَ تُظْهِرُونَ 1

                             (ビザンチン章 30-17、18)

 兄弟よ。あなたは私に、五回の祈りの時間がなぜ定められているのか、それにはどんな英知が含まれているのかを訊ねました。そのたくさんの英知のうちいくつかを示しましょう。

 そう、それぞれの祈りの時間は、重要な変化の始まりの時間であると同時に、偉大なアッラーのみわざの鏡であり、全てをお望みのままになされるアッラーの全てを包括する恵みの投影でもあります。だからさらなる賛美でもってカディーリ・ズルジャラールを称える為に、それぞれの時間の区分の間で蓄積されたアッラーへの賞賛と感謝を行うことを意味する、礼拝が命じられているのです。この繊細で深い意味を少し理解する為、次の五つのポイントを私自身の我欲と共に聞いてください。

第一のポイント

 礼拝の意味はジャナーブ・ハックへの賛美、賞賛、そして感謝です。つまり

‐アッラーの威厳を前にして言葉で、そして心でスブハーナッラー(アッラーはあらゆる欠点からかけ離れたお方である)と唱えること

‐アッラーの完全さに対して、言葉と行為でアッラーフ・アクバル(アッラーは偉大である)と称えること

‐アッラーの無限の美しさに対し、心と言葉、肉体でアルハムドリッラー(アッラーに感謝を)と唱え、感謝することです。

 つまり、タスビーフ(アッラーがあらゆる欠点から遠いお方であると唱えること)、タクビール(アッラーが偉大であると唱えること)、そして感謝は礼拝の核のようなものです。だから、、この三つの言葉は礼拝の全ての部分で、全ての動作と動きに存在します。それらの神聖な言葉を強めるように、礼拝の後でそれぞれを三十三回ずつ唱えるのもこの為です。礼拝の意味は、この三つの焦点によって強められるのです。

第二のポイント

 イバーダの意味とは、アッラーの慈悲の扉においてしもべが彼自身の欠陥と無力さを知り、ルブービーヤの完全性と、サマダーニヤの力、そしてアッラーの恵みを前にして、愛情と感嘆の中で身を伏すことです。

 つまり、ルブービーヤの統治が、アッラーのしもべとなること、従順であることを求めるように、ルブービーヤの統治の神聖さは輝かしさを求めるものなのです。しもべが自らの欠点を目にし、悔悟によって、そのラッブがあらゆる欠点から遠く、輝かしい存在、逸脱した人々の無為な考えからも遠く、崇高でこの世界のあらゆる欠点からかけ離れ、清らかであられることを、タスビーフによって、スブハーナッラーと唱えるようにと。

 またアッラーの力の完全性は、しもべが彼自身の弱さと他の被創造物の無力さを理解し、アッラーの御業の威厳を前に、賞賛と感嘆の中で「アッラーフ・アクバル」と唱え、畏怖の気持ちと共にルクウを行い、アッラーに庇護を求め、信頼することを求めるのです。

 またアッラーの慈悲の無限なる宝庫は、しもべが懇願と祈願の言葉を通して、彼のニーズ、他の被創造物の要求、必要とするものを求め、ドゥアーの言葉によって示し、そのラッブの恵みを感謝と称賛、そして「アルハムドリッラー」と唱えることを求めます。

 つまり、礼拝の言葉と動作はこれらの意味を含んでおり、それらの為にアッラーによって定められたものなのです。

第三のポイント

 人間がこの偉大なる宇宙のミニチュア見本であるのと同様、開端章(アル・ファーティハ)は偉大なる聖クルアーンの輝かしい見本です。礼拝はイバーダの様々な種類を内包する、輝かしいインデックスであり、被創造物のあらゆる種類の崇拝を示す神聖な地図なのです。

第四のポイント

 週を示す時計があるとすすれば、その時計の秒針、分針、時針、そして日を示す針は、それぞれ、お互いがお互いの見本であり、お互いの後に従う。同様に、ジャナーブ・ハックの偉大なる時計の秒針のようである夜と昼の移ろいも、分針のようである年の移ろいも、時針のようである人間の寿命の段階も、日を示す針のようであるこの世界の寿命の段階も、全てそれぞれが互いを当てにして、互いの見本であり、互いに似ており、互いを支配しているのです。

 例えば、ファジュルの時間。日が昇るまでのこの時間は、春の始まり、母の胎内での受胎の瞬間、天と地の創造のうち最初の1日に似ており、それらを心に思い起こさせます。そしてそこにあるアッラーのみわざを思い出させるのです。

 ズフルの時は、真夏、若さの素晴らしさ、そしてこの世界の寿命における人間の創造の時期に似ており、それを示します。そしてそこにある慈悲の権限と恵みの豊かさを思い出させます。

 アスルの時間は秋、老年期、そして終末の世の預言者(彼の上に祝福と平安あれ)の幸福の時代に似ています。そしてそこに存在する、アッラーのみわざとアッラーの無限の慈悲による恵みを思い出させます。

 マグレブの時は、秋の終わりにおける多くの創造物の消失、そして人の死、最後の審判の始まりにおけるこの世の破壊を思い出させることでアッラーの無限の威厳と崇高さを思い起こさせ、人を不注意なまどろみから目覚めさせます。

 イシャーの時は、暗い闇によって昼の世界の全てを覆い隠す黒い覆いを思い起こさせ、そして冬がその白い死者を覆う布によって、地上の死者たちを覆い、さらに死者たちが遺した近親者たちすらも死に絶え、忘却のベールに覆われること、そして、試練のステージであるこの世界が閉じられていくことを思い起こさせることによって、カッハール・ズルジャラールの壮大なみわざを告げるのです。

 夜は、冬、墓、この世とあの世との間にある世界を思い起こさせることで、人間の精神が最も慈悲深いお方の存在をどれほど必要としているかを思い出させます。そしてタハージュドの礼拝は、墓場の夜、この世とあの世の間の世界の闇においてそれがどれほど必要な光であるかを人間に知らせ、警告します。そしてこれらの変化の中でジャナーブ・ムニーム・ハキーキの無限の恵みを思い起こさせ、アッラーが感謝と称賛に行かにふさわしい存在であるかを告げるのです。

そして第二の朝は、復活の朝を思い起こさせます。夜には朝が、冬には春が適切で、必要で、絶対であるように、復活の朝も墓場の春も同じ絶対性を持つのです。

 つまりこの五つの時がそれぞれ重要な局面の始まりであり、大きな変化を思い起こさせるように、アッラーの驚嘆すべき日々のみわざは、それぞれの年、時期、時代におけるサマダーニヤの力の奇跡、アッラーの慈悲が与えられる贈り物を思い起こさせます。つまり人の生まれながらの義務であり、信仰の基本であるファルドの礼拝は、これらの時間に最も適切であり、ふさわしいのです。

第五のポイント

 人間の本質は非常に弱いものです。それにも関らず、多くのものが彼に影響を与え、彼を嘆かせ、悲しませます。そして人は非常に無力です。しかし彼を苦しめる災難と敵はとても多いのです。そして彼は怠け者で、能力を持ちません。しかしその人生の荷はとても重いものです。彼の人間性は彼をこの世界に結び付けるが、彼が愛するものや親しんだものの消失と別離が常に彼を苦しめます。また彼の知性は彼に、崇高な目的と無限の成果を彼に示します。しかし彼のできることは少なく、命は短く、力はなく、辛抱強さもわずかなのです。

 この状態にある魂がファジュルの時間に、カディーリ・ズルジャラールラヒーミ・ズルジャラールの御前で懇願や礼拝によって自らの状態を訴え、成功と援助を求めることがいかに適切か、その日彼の身に起こるであろう出来事や、彼の背に乗せられるであろう重荷のために助けを求めることがいかに不可欠なことか、明白に理解できるでしょう。

 そしてズフルの時間。それは一日の絶頂期であり、その衰えの始まりでもあり、その日の仕事が完成される時であり、仕事の圧力からの短い休憩の時です。このはかない世界の一時的な、そして重い仕事が与える不注意さや疲れから魂が休息を必要としている時であり、アッラーの与えられる恵みが明らかにされる時でもあるのです。人の魂にとって、この正午過ぎの礼拝がどれほど素晴らしく、快く、必要なもので、そして適切であるか理解されるでしょう。プレッシャーから逃れ、不注意さを振り払い、無意味ではかないことを脇へよけ、カイユーム・バーキー、ムニーム・ハキーキの御前で手を組み、あらゆる恵みに感謝し、助けを求めること、その威厳、崇高さの前にルクウをし、自らの弱さを訴え、消えることのないその完全さと比類なき美の前にサジュダをし、感嘆と愛情と謙虚さを訴えることを意味するズフルの礼拝を行うことがいかに素晴らしく、必要なことであり、適切であるかを理解しない人は、真の人とは言えないのです。

 アスルの時間、それは秋の物悲しい季節、哀しみに沈んでいる老年期、そして末世の痛みに満ちた時期を思い起こさせます。その日の仕事の結果が出る時間、その日に与えられた健康、安らぎ、立派な奉仕といったアッラーの恵みの集大成が形成される時です。

 そして巨大な太陽が沈んでいくことで人はただの客に過ぎず、何もかもがはかなく不実であることを示唆する時間なのです。

 人の精神は永遠を切望し、永遠の為に創造され、慈悲深さを強く慕い、別れによって苦痛を与えられます。このような魂が、立ち、ウドゥーを行い、このアスルの時間に礼拝を行う為に、カディーム・バーキー、カイユーム・サルマディーン、サマダーニヤの御前で懇願し、失われることのない、限りのない慈悲による救いに庇護を求め、限りない恵みに感謝し、ルブービーヤの威厳と崇高さに対し無力さのうちにルクウを行い、ウルーヒーヤの無限さの前で謙虚にサジュダを行い、真の心の慰め、魂のやすらぎを見出し、アッラーの崇高さの御前でしもべとして服従すべく手を組み合わせることを意味するこのアスルの礼拝を行うことがいかに崇高な任務で、いかに適切な奉仕で、創造における恩にふさわしい行為であるか、そして素晴らしい幸福を得ることであるということを、人であるならば理解できるでしょう。

 マグレブ(日没の時間)。冬の初めの、夏や秋の、繊細で素晴らしい生物たちが、別離の悲嘆のうちに去っていくことを思い出させます。人が死ぬことで、人間が自分が愛する全てのものを別離の悲しみの中に残し、墓に入る時間を思い出させます。この世界が断末魔の苦しみの中に死に、、全ての住人が他の世界へ移っていき、そしてこの試練の場の明かりが消される時のことを思い起こさせます。はかなく、つかの間の存在でしかないものを愛し崇拝する人々に強い警告を与える時でもあります。

 そう、マグレブの礼拝は、このような時間に、本質的に永遠の美である存在を望む鏡のようであり、その限りない美を愛する人の魂は、その顔をこの偉大な事柄を実行し、この大きな世界を動かされ、変えられるカディーミ・ラムヤザルバーキ・ラヤザルの御業がなされる場に向けます。はかない存在に対し、「アッラーフ アクバル」と宣言し、そういった存在から手を引きます。ダーイミ・バーキーであるお方アッラーの御前でキヤームを行い、「アルハムドゥリッラー」ということで、不足のない完全さ、比類なき美、限りのない慈悲に感謝し、賛美を行い、それから「私たちはあなたにのみ崇め仕え、あなたにのみ御助けを乞い願う」(開端章第5節)と宣言することで、何も助けを必要としないルブービーヤ、並ぶもののないウルーヒーヤ、そして助けを要さないその統治に対し、しもべであることを訴え、救いを求めます。

 そして無限の強さ、力、比類なき完全さの前で人は自らの弱さ、無能さ、卑しさを明らかにし、「あらゆる欠点や欠如と無縁の存在であられる偉大なる我が主の栄光を讃えます」と唱え、ラッビ・アズィームを賛美します。

 そしてその不滅の美しさ、不変の神聖さの前にサジュダし、感嘆と謙虚さのうちにそのお方の存在以外の全てを否定することで愛情と、自らがしもべであることを宣言し、全てのはかないものに対し、ジャミーリ・バーキーラヒーミ・サルマディを見出し、そして「アッラーはあらゆる欠点と欠如と無縁の存在であられる」(サジュダの際に唱える言葉)と言い、ラッビ・アーラーがあらゆる欠点から無縁であることを宣言するのです。

 それからタシャッフド(座位)を行い、全ての創造物からのドゥアーと祝福祈願を、ジャミーリ・ラムヤザルジャリ―リ・ラヤザルに捧げ、「威厳と崇高さが限りのないお方に差し上げます。そして偉大なる預言者を祝福することにより、そのお方への忠誠を新たにし、その命令への服従の気持ちを示し、信仰を新たにし、輝かしいものにする為、人はこの宇宙という宮殿の素晴らしい英知に基づいた秩序を観察し、全てを美しく創造されたサーニ・ズルジャラールの唯一性を証言します。

 そしてアッラーが全てを支配し、被造物を導かれることの証拠であり、アッラーが慶ばれる状態、行いを教えられる使者、そして宇宙という書物の章の通訳者であられる預言者ムハンマドが預言者であることを証言します。

 これらを意味するマグリブの礼拝を行うことがいかに素晴らしく、また本質的な義務であるか、いかに清らかで輝かしい崇拝行為であるか、そしてこれが一時的な客室でしかないこの世においてつかの間の、しかし最上の会話であること、永続的な幸福であることを理解しない人は、どういった人なのでしょうか。

 イシャーの時間。その時、地平線に残されていたわずか痕跡も姿を消し、夜の世界が世界を包み込みます。昼と夜を交代させるお方2であるカディーリ・ズルジャラールが、昼間の白いページを夜の黒いページへと変えられること、太陽と月を従わせるお方(雷電章第2節)が、夏の間の美しい緑のページを冬の冷え冷えとした白いページに変えられることにおける、太陽と月を統治下に置かれるハキーム・ズルカマールの御業を思い起こさせます。

 時間の経過と共に、墓にいる者たちが遺したものすらもこの世界からなくなること、完全に他の世界へと移ることにおける、死と生のハールクであるお方の行い、みわざを思い起こさせるのです。

 この狭くはかなく価値のない世界が完全に破壊され、痛ましい形で最期を迎え、広く、終わりがなく偉大な世界が開かれ、天と地のハールクであるお方の無限の威厳を反映するみわとアッラーの無限の美を反映した光景を思い起こさせ、思い出させる時なのです。

 この世界のマーリクムタサッリフィ・ハキーキマーブドゥ、そしてマフブーブ・ハキーキ、そして崇拝されるべき存在とは、ただこのお方でしかありえないのです。すなわち夜を昼に変え、冬を春に変え、この世をあの世に変え、本の一ページであるかのようにそれらを記され、消され、変えることできる、カディーリ・ムトゥラークでしかありえないということを証明するのです。

 そう、無限の弱さ、無力さ、そして無限の困窮、ニーズ、そして無限の闇に陥り、無数の出来事の中でもまれている人間の魂がイシャーの礼拝を行うことには次のような意味があるのです。

‐預言者イブラーヒームが

لاَ اُحِبُّ اْلاٰفِلِينَ

(家畜章 6:76)と言ったように、マーブドゥ・ラムヤザラルマフブブ・ラーヤザールの宮殿に庇護を求め、このはかない世、はかない命、そして暗い未来の中にあって、バーキー・サルマーディに救いを懇願し、永遠の為の神秘に触れる説話やほんのわずかの寿命の中で彼自身の世界を照らし、未来を明るくし、創造物の消失や友との別離から生じた傷を癒される、ラフマーン・ラヒームの恵み深いみわざと導きの光を見て、それを求めること、

‐そして一時的に彼を忘れ、隠された現世のことを彼もまた忘れ、その苦しみを心の嘆きと共にアッラーの慈悲の扉の前で訴えること

‐そして、死に似ている眠りに入る前に最後の崇拝の義務を果たし、その日の行動の記録をよい形で締めくくるために礼拝に立つこと

‐つまり彼が愛してきた全てのはかないものの代わりにマーブドゥマフブドゥ・バーキー、永遠の生を持たれるお方アッラーを、そして彼が助けを求めてきた全てのの無力な存在の代わりに、カディーリ・カリームを、そして全ての彼が恐れ震えてきた災いから救われる為にハーフズ・ラヒームの御前に立つこと

‐さらに、開端章から始めること、すなわち何の役にも立たない、ふさわしくない装飾や無力な創造物への称賛や恩の代わりに、カーミリ・ムトゥラクガニーイ・ムトゥラクラヒームカリームであるラッビウル・アーラムを称賛し「あなたにのみ崇め仕える」という呼びかけへと高めること、すなわち自らの矮小さ、無力さ、頼りにするものが他にない状態と共に、アザルアバドゥ・スルタンである「最後の裁きの日の主宰者」(開端章第4節)に従い、この世の一時的な客人、そして重要な任務を帯びている立場となり、「私たちはあなたにのみ崇め仕え、あなたにのみ乞い願う」(開端章第5節)と言うことによって、全ての被造物の名において、この世界の最大の共同体のイバーダと救いへの懇願をアッラーに伝えること

‐そして「わたしたちを正しい道に導きたまえ」(開端章第6節)と唱えることで、未来の闇の中で、永遠の幸福に至る輝かしい道である「正しい道」への導きを求めること

‐そして、今眠っている植物や動物のように、隠された太陽、そして目覚めている星たちがそれぞれ兵士のように命令に従い、またこの世界という客室のランプのようであるであり、従者のようであることから、ザートゥ・ズルジャラールの偉大さを思い、「アッラーフ アクバル」と言いながらルクウを行うこと

‐それから、全ての被造物がいっせいにサジュダを行うことを考え、つまりこの夜に眠っている全ての創造物と同様、どの年においても、どの世紀においても様々な創造物、そして大地やこの世界そのものが、それぞれ規律に従う兵士のように、しもべとしての任務を行っていたこの世界から、「『あれ』と御命じになれば、即ちある」(ヤー・スィーン章第82節)という命令に従ってその任務を解かれる時、すなわち幽玄界へと送られる時、この上ない秩序のうちに別離という絨毯の上で「アッラーは偉大なり」とサジュダし、そして「『あれ』と御命じになれば、即ちある」という命令からもたらされる、生命と警告を与えられる呼びかけによって、一部は同じ形で、一部は異なるけれど似ている形で復活し、立ち上がり、マウラーの御前でその命令に従って両手を組むのです。同じように人もまたこれらに従って、ラフマーン・ズルカマール、ラヒーミ・ズルジャマールの御前に、感嘆すべき愛情と限りない畏怖の念、謙虚さをもって平伏し「アッラーフ アクバル」と言ってサジュダを行うこと、つまり、信者たちにとっての昇天のようであるこのイシャーの礼拝を行なうことがどれほど素晴らしく、どれほどふさわしく、どれほど偉大で味わい深く、またどれほど理にかなった義務、そして奉仕、しもべとしての任務であるか、いかに重要な事実であるか、あなたは理解できたでしょう。

 つまり、この五回の礼拝の時は、それぞれが大きな変化のしるしであり、アッラーの包括的で偉大なみわざの刻印であり、アッラーが被造物に与えられた無限の恵みの象徴である為、、人々の義務、責任であるファルドの礼拝がこれらの時間に割り当てられていることはこの上ない英知によるものなのです。

سُبْحَانَكَ لاَ عِلْمَ لَنَۤا اِلاَّ مَا عَلَّمْتَنَا اِنَّكَ اَنْتَ الْعَلِيمُ الْحَكِيمُ 3

(雌牛章 2:32)

「アッラーよ。しもべたちがあなたをどのように知るべきか、そしてあなたに対してどのようなしもべであるべきか教える為に、美名に秘められた宝を示す為に、この世界という書物の通訳者として、そしてしもべとして、アッラーの美を映す鏡としてあなたが遣わされたお方に、そして家族と教友たちの全てに祝福と平安がありますように。我々に、男女全ての信仰する者たちに、慈悲をお与えください。アーミーン。慈悲深い上にも慈悲深いお方よ」

1 それで、夕暮にまた暁に、アッラーをえなさい。天においても地においても、栄光は彼に属する。午後遅くに、また日の傾き初めに(アッラーを讃えなさい)

2 (御光章第44節「アッラーは夜と昼を次々に交替させる。本当にこれらの中には、見る目をもつ者への教訓がある。」)

3 あなたの栄光を讃えます。あなたが、私たちに教えられたものの外には、何も知らないのです。本当にあなたは、全知にして英明であられます

第9の言葉

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